2005年10月31日

ボニン・アイランド23

10月2日
いよいよ小笠原最終日。
朝は、いつものようにカメさんに餌やり。この日は、船で初寝浦方面へ天パトに行く人たちがいて、その人たちを送り出しながら、さようならの挨拶。
9時からお店が開くとのことで、おみやげを買いに行く。
農協の売店で、小笠原さんのラム酒や自然塩、島唐辛子、島レモンなどを買う。職場のおみやげには、お菓子。
手早く買い物を済ませ、海洋センターに戻り、水槽の清掃や餌やりをする。普通なら、ボランティアの人が帰る時は、出港日はお休みとのこと。僕もお休みをもらえることになっていたみたい。
入港日と出港日に半日の小笠原ツアーを実施しているショップが数多くあって、そういうのに申し込んでおけば、半日で、それなりの島巡りが出来たりするらしい。
僕は、そういうことには至って無関心で、それよりも、最後までボランティアの仕事をすることの方が面白かったし、重要だった。
だんだんと出航時間が近づいてくる。おが丸は2時に出航する。なんとなく身の置き場が無くソワソワ。お昼を食べて、荷物をまとめて、後は出航時間を待つだけ。
周りの人たちに挨拶をするも、なんか変な感じ。所長さんからは、「日常に戻るのよ」って言われる。海洋センターの人たちにとっての日常は、僕にとっての非日常。頭では分かっているものの、この状態が日常ならいいのになぁーと思う。
13時40分頃に、海洋センターのスタッフに車で港へ送ってもらう。
港には、別れを惜しむ人々が一杯。海洋センターのスタッフの一人からレイをかけてもらう。生花で作った手作りのレイ。とても良い香りがした。天パトに行かなかったボランティアの人も来てくれて、もう一人のスタッフの人が作ってくれたというお弁当を手渡される。
戦跡を案内してくれた人も来てくれて、レイは、出航の汽笛が鳴ったら、海に投げるんだぞ!って言われる。
時間が来て、いよいよ乗船。船の中はごった返していた。自分の席に荷物を置いて、大急ぎで甲板に出る。人が一杯で、背伸びをして手を振るも、見送りに来てくれた人たちには、中々分かってもらえなかった。
そして出航。船が岸壁を離れる時に、何とも言えない思いがこみ上げてくる。本当に去りがたい気持ち。
でも、船は岸壁を離れていく。汽笛と共にレイを投げた。本当は記念にずっと持っていたいと思ったのだけれど、その思いを断ち切って、投げた。
小笠原丸の出航時の名物が、見送り船。漁船やダイビングスクールの船が、おが丸をずーーーと追いかけてくる。そして、見送り船から、海へのダイブ。
あー、小笠原、バイバイって感じで、しばらく甲板から見送り船を眺めていた。
気持ちに区切りをつけて、船内へ。直ぐにシャワーを浴びる。そしてビールを飲んで一寝入り。
25時間半の船旅の始まりだ。
夕食の時間になって、もらったお弁当を開く。食べながら思わず涙がこぼれそうになる。海洋センターの元ボランティアから届けられた、貴重な明太子がたっぷり入っていた。
夕食を終え、しばしウダウダした後、甲板に出る。空を見ると満天の星。天の川がうっすらと見えた。
行きのおが丸は一人でも、帰りは友達が出来て宴会とよく言われるみたいだけど、普通の宿に泊まった訳ではないので、同宿の人もいず、結局行きも帰りも全くの一人だった。でも、小笠原でいろんなものを一杯もらってきたから、それだけで幸せだった。
2等船室だったから、周りの人の話し声も聞こえてきて、いろいろと面白い情報も得ることができた。
小笠原に行くのに、そして帰るのに25時間半かかるのは意味があるんだという話を、ネットで読んでいたのだけれど、本当にそう思った。小笠原から内地の日常に戻るためには、飛行機で一気に戻ってしまったら、心の準備が出来ないもの。
25時間半かけて、ゆっくりと、経験を反芻しながら日常に戻る準備をしていかないと、ショックが大きすぎる。
翌朝は5時半頃起きて、日の出を見る。
12時ちょっと前に東京湾に入り、13時頃に房総半島と三浦半島がよく見えるようになり、湾の奥には、東京のビル街が見えてくる。
定刻よりちょっと早めの3時15分に竹芝桟橋に到着。
僕の小笠原旅行は終わった。
でもね。小笠原との関わりの始まりがこの旅行だったんです。この後、ネット上で知り合った小笠原好きの人たちとのオフ会があったり、カメ先生の講演会を聞きに行ったり、と今も小笠原との関係が続いています。年末年始は、小笠原を再訪します。今度は鯨を見たいと思ってます。
カメ先生の講演会の話は、次回詳しく書きます。
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高速鉄道はいらない! トリノでデモ+α

トリノ−モデナ間の鉄道が、ブロッケードでストップした。
トリノ−リオン間に高速鉄道を通すための地質調査に反対して、トリノの住民が鉄道の線路を占拠した模様。
これによりトリノ−モデナ間の列車がストップしたらしい。この抗議行動で、住民側に負傷者一人が出た。

ここからは、僕の意見
このニュースは、イタリアの一般紙コリエレもレップブリカも現在(日本時間午後9時ちょっと前)、ウェブサイトのトップで報じている。
日本のマスメディアではまずあり得ないことだと思う。
かつて、僕は、横浜新貨物線反対運動(「いま、公共性を撃つ」って本があるので、それを読んでください。未だに絶版にならないで買えるようです。これもすごいことだ!)や三里塚闘争に参加していたことがある。誤解の無いように言っておくと、どこのセクトにも属していない。いわゆる「ノンセクト・ラジカル」って部類でだ。反原発運動にも関わっていた。
当時のマスメディアは、その方向性の違いこそあれ、そういった住民運動、市民運動の動きをそれなりに伝えていたと思う。もちろん、「運動」をしている側から言えば、充分とはいえないにしても、、、
イタリアは素晴らしい、日本はひどいと単純に言うつもりはない。でも、それにしても、現在の日本のマスメディアの情けないことと言ったら、、、
フジテレビがライブドアに買われそうになり、TBSが楽天に買われそうになる。確かに、既存のマスメディアとネットの融合は、いずれ来ることだと思う。でも、その先に何があるのか?伝えるべきコンテンツ、報道すべき情報に関するポリシーが全然見えない。
マネーゲームの一環として、インフラを整備するための買収劇としか思えないのだ。
システムが出来たとしても、そこに魂がなければ、何の意味も無いのではないだろうか?
今の日本だって、マスメディア報道されない重要な出来事がいっぱいある。普天間基地の移転問題にからんで、辺野古の地で闘われている運動。イラクへの自衛隊派兵に反対するデモへの警官による弾圧。原発建設予定地での住民による反対運動。横須賀が原子力空母の母港となることへの反対運動。数えていけばきりがない。
それなのに、こういったことは、マスメディアはほとんど報じることがない。
政治的なことばかりではない。今年、僕が目を見開かされたウミガメの問題だって、現場の人たちの話は、全然伝えられることがない。ウミガメだけでなく、自然保護や動物保護について、いったいどれくらいの報道がマスメディアでなされているのだろうか?
情報化社会なんて言葉は既に死語と化しているが、溢れかえる情報の中で、マスメディアは一体何を伝えようとしているのだろう?
毎朝、新聞は読むけれど、例えばイタリアに関する情報は、日本の新聞は、早くて2日から3日遅れだし、海外の重要なニュースは、日本のマスメディアよりも、イタリアのサイトで最初に得ることが多い。
実際問題として、僕が知りたいと思う情報は、まずネットで探す。日本語の情報が怪しい時は、英語やイタリア語で探す。その方が、正確でより新しい情報が手にはいるのだもの。
例えば、このブログを読んでいるみなさんは、どこから情報を得ているのでしょう?
アクセス解析を見ていると、どこの誰がとは分からないものの、普通はマスメディアには出ないであろうというキーワードを検索して、このブログを訪れている方も多いようだ。
僕一人では何にも出来ないけれど、ニッチでマニアックな情報を発信し続けることで、ネット全体が豊かになり、マスメディアに対抗しうる情報を提供できるようになるのだと思っている。
日本のマスコミを信じてはいけない。
posted by tady at 21:40| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

大学も占拠されてるみたい。

モラッティ文相の教育法に反対する学生たちの動きは、大学にも広がっているようす。
ミラノとローマの大学は一時占拠されていた。
ミラノの大学では、占拠中に、ダリオ・フォーが登場して、授業をやったとか。それも、頑張って反対運動しなさいって内容。
何度も書いているけど、ダリオ・フォーはノーベル文学賞受賞者で、イタリア演劇界の大御所。
そして、次回のミラノ市長選の野党候補だそうだ。

国の政策に反対して、大学を占拠した学生のところに、ノーベル賞受賞者がやってきて、頑張れよって励まして、しかもその人は、次のミラノ市長候補っていうんだから、イタリアは面白い。

学生たちの活動は、フィレンツェ、パドヴァ、ナポリ、そしてボローニャでも始まっているという。
posted by tady at 11:16| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月30日

ボニン・アイランド22

たんたんと行きます。
10月1日夜
レクチャーが終わり、事務所内にあるダイニングキッチンに移動。
その日は昼間から、SさんとNさんが、夕食の料理についてなにやら話していて、何時間ぐらい煮れば肉は軟らかくなるかなとか、味付けはどうするとか言っていたのですが、キッチンで、コトコトと煮えていたのは、彼らが作っている料理でした。確かインドネシア料理だと言っていたと思いますが、お茶で肉を煮るというもの。
その他にも料理が出来ていて、さあ夕食って感じだったのですが、ボランティアの若者が、ご飯を盛り出すと、Sさんが、酒を飲むんだから、ご飯はやめて!とご飯禁止令が発動されました。

僕は、その時は「そうか、今日も天パト大変だったし、まずは酒を飲むんだな」くらいの認識だったのですが、Sさんの次の言葉にビックリ! 「だって今日は送別会でしょ!」。まさに「ガーーーーーン」って感じでした。翌日島を後にするのは僕一人。海洋センターの正式なボランティアでもなく(海洋センターのボランティアは最低1ヶ月が条件です)、ある意味では、単に遊びに来ただけで、船が台風で出なかったっていう特別な事情はあるにしても、短期間のツアー客+αくらいの関係でしかなかった僕の送別会をやってくれるらしい、、、いろいろと迷惑をかけたはずなのに、、、いや、ほんとに嬉しかった。
ボランティアの人たちは、お腹を減らしていて、ご飯が食べたくてしょうがないのに、酒飲みに付き合ってくれました。お料理はとっても美味しかった。そうこうするうちに、焼酎が登場! Sさんが、今日は飲もうと思って買ってきたんだよと言って、僕も早速ご相伴にあずかりました。
レクチャーを聴いた時から、とっても面白い話だったので、そういう話は本になっていないんですか?と聞いたのですが、海洋センターの蔵書の中に、Sさんの話が載っている本があって、ここを読んでくださいと、手渡されました。既にちょっと酔っぱらっていたので、ざっと読んだだけだったのですが、Sさんて面白い人なんだってことが良く分かりました。(内地に帰ってきてネットで調べたら、その本の元となった文章が見つかりました。ご本人の許可は得ておりませんが、本にもなってるし、ネットでも公開されているので、載せちゃいます。ここ

テーブルの上に料理がなくなったかな?って時に、お客さんが登場。僕は事情は全く分かりませんでしたが、どうやら海洋センターを支えてくれている地元の方のようで、村役場であった、なにやらのレセプションで出た料理があまったので、差し入れしてくれたらしいです。
再びテーブルの上にはたくさんの料理。中には、ウミガメの煮込みまでありました。帰るまでには、一度食べてみたいと思っていた料理に、最後の夜に出会えるとは、なんという幸運! もっと臭みがあるのかと思ったら、ぜんぜんそんなことはなく、とっても美味しかった(カメさんごめんなさい)。
ご飯禁止令が出ていたボランティアの若者達も、料理だけでお腹一杯になった様子。
勉強会とかで、出かけていたスタッフも戻ってきて、ほんとに楽しい夜となりました。小笠原に来て、初めていろいろなことが話せた感じでした。それが最後の晩だったっていうのが残念ではありますが、、、カンドーの夜はこうして更けていきました。僕はかなり酔っぱらって、1時頃に就寝しました。
カンドーは翌日も続くのだけれど、それは次回。
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ほんとかよ!?

イタリアの首相、シルヴィオ・ベルルスコーニは、月曜日に放送される番組の中で、インタビューに答えて、「自分はイラク戦争に反対だった」「ブッシュを説得したけれどダメだった」と述べたそうです。イタリアの新聞報道によればってことですが。
しかし、ほんとかよ!?ってのが正直な感想。CIAゲートと呼ばれるスキャンダルが、ブッシュ政権を揺さぶり始めている今になって、「僕は反対だった」って言ってもね、、、、
まあ、未だに何も言わずに、ブッシュべったりのどこかの国の首相よりは、先を読んで、自己保身をはかる才覚があるだけ、マシなのかもしれませんが、、、
でも、政治家達の茶番劇によって、どれだけの人が死んでいったのかを考えると、哀しくなります。
posted by tady at 17:43| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週末はラーメン15

土曜日、朝起きると空はどんよりと曇っている。これじゃハイキングは無理。ってことで、二郎三田本店に食べに行くことにする。
三田本店は朝10時からの営業なので、早めに行って食べて、その後秋葉原周りをしようと家を出る。
三田本店に到着したのは10時半頃。既に20人近くが並んでいた。
初めて二郎を食べたのは、三田本店が移転するまで、確かイタリア大使館にビザの申請に行った際に、何やら人が並んでいるラーメン屋があり、なんだろうと思って僕も並んだ。店の中からは、なにやら暗号のような言葉が聞こえてくる。「小豚ダブルヤサイましましニンニクカラメ」とかね。初めてで何のことやら分からず。とにかくラーメンと言って食べたと思う。当時は、食券販売機もなくて、カウンターの上に小銭を入れる箱があったように記憶している。
食べ終わって、出てきた時の感想は、「これはなんというラーメンじゃ!」って感じだった。どうにか食べられたのは、若かったからだろう。それでも、数週間後、ビザを受け取りに再びイタリア大使館を訪れた帰りにも食べたのだから、嫌いだったわけではない。
それから20数年後の再訪となった。前日の晩は、お刺身と牡蠣をさっとお酒で蒸したものをつまみにお酒を飲んだだけで、ご飯は食べなかったし、この日の朝は、野菜ジュースを1本飲んだだけで、三田本店に望んだ。並んでいるうちから、二郎独特の匂いが鼻をくすぐる。回転がよくて、それほど待たずに席に着けた。小豚にするか小ヤサイマシにするかと悩みつつも、デフォを注文。最初の一口で、昔食べた本店の味が蘇った。しかし、量は思ったよりも多かった。デフォにしといてよかったと思いつつ、必死で食べた。食べ終わった後、舌がピリピリするとどこかの掲示板にあったが、確かにその通り。グル(グルタミンサン)のせいだという説と熱いので火傷するからだという説とあるようだが、その両方のような気がする。ただ、いつまでも舌に残る旨みは、全てがグルのものだとは思えなかった。
食べ終えて、秋葉原に向かう。久しぶりの秋葉原散歩。新しいPCを組もうかと思っているので、そのための情報収集と、出物があれば買おうかなってことで、あちこちグルグル。閉店したところもあれば、新たに開店したところもあり、秋葉原も中々移り変わりが激しい。
デジカメ用にメモリーカードリーダを購入。22種類のカードが使えてお値段は980円。それに、新しく買ったノートにはCD−ROMドライブがないので、USB接続の外付けドライブを探した。DVDのマルチドライブは高くて諦め、うろうろしていると2980円でUSB接続のノート用CD-ROMドライブを発見。早速購入。溜まったデータは、CD-R・RWの付いてるPCにLAN経由でデータを送って焼けば、多少手間はかかるけど、今のところは大丈夫なので、今回はこれで我慢。
末広町の交差点まで出て、セガフレッドに入る。イタリア資本のcoffee shopだが、日本で飲めるエスプレッソとしては、ここのチェーン店が一番美味しいと思う。僕が定番にしているエスプレッソにアマーロを入れて一杯。コーヒーには消化を助ける作用があるということなので、これで少し歩けば、二郎もこなれるであろうと、秋葉原から神保町まで歩くことにする。
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posted by tady at 14:50| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月29日

ボニン・アイランド21

ボニン・アイランドもそろそろラストスパートって感じですので頑張って書きます。
10月1日の夕方から
天パトで砂まみれになったみんながシャワーを浴び終わったところで、Sさんのレクチャーを受けました。テーマはアオウミガメ。
一杯飲みながらやろう! とSさんから発泡酒の差し入れがあり、ロング缶片手に、レクチャー開始。パワーポイントで作成されたスライドをプロジェクターで投影してのお話でした。
最初に小笠原の海でジャンプするザトウクジラの写真が出てきたんだけど、捕鯨とウミガメって密接な関係があったんです。いや、初めて知りました。
その前に、ウミガメの受難は、コロンブスのアメリカ大陸発見により始まった大航海時代に起因するって話がありました。長距離を航海する船にとって、重要なのは食料。ウミガメは、甲板に置いておいても、かなりの期間生きているので、大航海時代には、ウミガメを生きたまま船に積み込んで、食料として食べていたそうです。生きてるわけですから、新鮮な肉が食べられる。生きた・蔵庫って感じだったそうです。
また、ウミガメの甲羅のスープは大変な珍味だそうで、イギリスの王室の正式晩餐メニューにもあるとか。ゼラチン質でとっても美味しいそうです。
その次にやって来たのが、近代捕鯨です(Sさんの話にはなかったのだけれど、イヌイットや日本の漁民が行っていた捕鯨とは区別した方が良いと思うので、ここで近代捕鯨って言い方にします)。船団を組んで、マッコウクジラを追い求める船乗り達が、ウミガメやゾウガメを生きた・蔵庫として、捕獲したそうです。ガラパゴス諸島のゾウガメが激減してしまったのも、そのためだそうです。ローンサム・ジョージの写真が、哀愁を誘いました(ちょっと前に、このブログに書いたサルガドの写真にも、ガラパゴスのゾウガメがありましたけど、ローンサム・ジョージの話を知っていて、あの写真を見ると、本当に哀しくなります。)
レクチャーの中で、ある人物の写真が出てきて、「この人だーれ?」ってクイズがありましたが、実は、日本に近代捕鯨をもたらしたのは、誰あろう、あのジョン万次郎です。(クイズには答えられたよ)
元々小笠原は、1530年に欧米人とハワイ人が住み始めるまでは無人島だったのですが、それ以降、米国の捕鯨船の補給基地になっていたって話は結構有名ですよね。あのペリーも、日本に来る前に、小笠原で・料と食料の補給をしています。
米国で捕鯨が盛んになった理由の一つは、金を稼ぐためっていうのがあったそうですが、1848年にカリフォルニアで金鉱が発見され、1849年にはゴールドラッシュが始まると、捕鯨は衰退していったそうです。これも知りませんでした。まさにへぇーーーの連続。
この後、現在Sさん達が取り組んでいるインドネシアにおけるウミガメ保護の話がありました。
調査に入って、5000カ所の産卵巣を調べて、きちんと自然な形で残っていたのはわずか4カ所だけだったという話はショックでした。これは、地元の人たちが掘り出して、ゆで卵にして売っているからだそうです。
Sさんの話の中で、すごい!と思ったのは、彼はカメの研究者なんだけど、ちゃんと人間を見ているところです。なんでインドネシアの人たちが、カメの卵を取ってしまうのか? それは、お金を稼ぐため。じゃあ、カメの卵を保護するためには、別の形で地元の人たちが生活できればいい。ということで、Sさんは、カメの卵を掘ってる人たちを、監視員として傭ったんですね。
ただ問題は、お金を産むものの周辺にはそれなりの組織があるわけで(イタリアのマフィアだってそうですが)、その一部を押さえてもダメってこと。そこでSさんは、システムごと引っ張り込んじゃったそうです。つまり、今まで卵を取っていた人も、それを集めて金を儲けていた人も全部ひっくるめて、卵を守るシステムに巻き込んでしまったってこと。今では、卵の買い付けの元締めみたいなことをやっていた人が、一番熱心に保護活動をやっているそうです。
こういう発想は、学者バカ(言葉は悪いですが)には出来ないだろうなぁーって思いました。
でも、資金は必要なわけで、民間のちっちゃなNPOがそれをやっているってこともすごいと思いました。ちなみに1000円あれば、一つの産卵巣を保護することができるそうです。よかったら、リンク先見てください。
ほんとにわずかな時間だったのですが、Sさんのレクチャーを聞いて、ウミガメを通して見えてくる、もう一つの世界を見せてもらった感じがしました。そこには、ウミガメを取り巻く、様々な人間模様や国家間の問題、政治の問題があったのには、びっくりしました。この辺の詳しい話は、ボニン・アイランド番外編で書こうかと思っています。
実に真面目で、高尚な話の後に待っていたのは、宴会でした。この日は、僕にとって小笠原最後の晩だったのです。ってことで、その話は次回。
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サマータイム終わりだよ

イタリアの現地時間で、この日曜日の午前3時に、夏時間から通常の時間に戻ります。
午前3時になったら、時計の針を午前2時に戻してください。
というアナウンスが出ておりました。
旅行に行かれる人はご注意を。日本との時差も8時間になります。
イタリアでは、夏時間のことをora legale=法律的時間、通常の時間をora solare=太陽による時間と呼びます。
コリエレに出ていた記事には、その歴史も書いてありました。
最初にサマータイムを提案したのは、ベンジャミン・フランクリンで1784年のことだそうです。(へぇーー)
イタリアがサマータイムを採用したのは、1916年のことで、6月3日から9月30日までだったそうです。その後1920年まで実施されましたが、開始時期は3月に繰り上げられての実施だったそうです。その後は、サマータイムは採用されず、1940年になって、再び実施されるようになりました。この時期は、まさに戦争のために富国強兵政策が取られていた時期で、戦後の1948年まで続いたそうです。1966年に再び実施されることになり、時期は、3月最初の日曜日から、10月最後の日曜日までとなりました。2006年は、3月26日から10月29日までがサマータイムとなります。
ちゃんちゃん
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2005年10月28日

ボニン・アイランド20

ここのところ、イタリアと小笠原と、時々ラーメンという支離滅裂なブログになってます。
その前はメキシコとイタリアだったんですけど、それでもやっぱり支離滅裂ですね。
何故かボニン・アイランドの話へのアクセスが結構あります。楽しんで頂けているならOKなんですが、、、
ボニンの話はいよいよ20回目、日付は10月1日です。
この日も、天パト班に加わることになりました。朝から雨が降ったり止んだりの天気で、海にはうねりがあり、船での出動は無理ってことで、陸路を車で浜まで行くことになりしまた。
まずは、お弁当作り。この日は、僕が作ることになり、前日に手伝ったことを思い出しながら、どうにか7人分のお弁当を作りました。ボランティアの若い人たちの食欲を満たすために、常にご飯が用意されています。海洋センターのお米の消費量はかなりのものがあるようでした。
お弁当箱にご飯を詰め、おかずとの仕切りは、庭からハイビスカスの葉っぱを取ってきて使います。おかずは、手早く調理が出来る冷凍食品が常備してあって、それを使います。
準備が出来ていざ出発。この日は焼き場とコペペ海岸の調査。焼き場は、昔から本当に焼き場が会ったのかもしれませんが、現在はゴミ焼却場があったりします。
車を止め、かなり急な山道を下って、焼き場の海岸に到着。この浜は、砂地ではなく、砂利の浜で、かなり荒い波が寄せていました。それを目的に多くのサーファーの人たちがいました。
小笠原の面白いところは、海岸で人とすれ違ったりすると、皆が「こんにちは」と挨拶すること。ちょうど山登りをしていてすれ違う時に挨拶を交わすような感じです。初めは、知っている人なのかと思ったのですが、どうやらそうではないらしく、習慣として、初対面でも挨拶を交わしているようなので、ちょっとビックリ&感動。豊かな自然があると人間も大らかになるのかななんて思いました。もっとも住んでいれば、見方はまた違うのでしょうが、、、
サーファーの人たちに、お邪魔しますの気持ちを込めて(僕はそうでしたが)、挨拶をして、穴掘りを始めます。ここはそれほど広くない海岸で、産卵巣を記録したノートにも、数カ所しか記載されていなかったのですが、掘り始めると、あちこちに記録されていない産卵巣が見つかり、もう大変。元々砂浜はほとんど無いところなので、カメさん達が産卵しているのは、木立の中。かなり苦労をしました。
それでも、穴を掘りながら、前日から天パトを指揮しているSさん(というと偉そうですが、全然そんなことはなく、率先して砂まみれになり、穴掘りをしていました)から、カメについて色々な話を聞くことが出来ました。実践の中で、経験豊かで知識に裏付けされた人の話を聞けるってことは、本当にラッキーでした。小笠原に行くまでは、ウミガメにそれほど興味があったわけではないし、知識はゼロに限りなく近かった僕ですが、すっかりはまってしまいました。
予定では、お昼前には、焼き場を終えて、コペペ海岸に向かうはずが、新たに見つかった産卵巣が多かったので、調べ終えて移動したのは、2時近くでした。
コペペに移動して、お弁当を食べ、一休み。おかずが少ない!と言われてしまいました。
コペペ海岸は、小笠原でも数少ない砂のある遠浅(といってもすぐ深くなるんだけど)の海岸で、シーカヤックを楽しむ観光客の人たちがいました。
午後も相変わらず穴掘り。でも、午前中の焼き場よりは、かなり掘りやすい場所でした。
こうした調査をしながら聞いた話で、興味深かったのは、保護した卵を孵化させる時の話。保護した卵を海洋センターの孵化場に移植して、孵化・脱出まで管理する際に、孵化率が低下してしまうという問題があり、その原因が、砂の中の温度であると分かるまでに、7年から8年かかったそうです。天然の浜だと、木立があり、日陰があって、砂の中の温度はそれほど上がらないのに、孵化場では、日に照らされるままで、砂地の温度が上がっていたそうです。それが分かってからは、孵化場の上にヨシズで覆いをかけるようにしたとのこと。そう言えば、小笠原初日の台風養生の時、そのヨシズが飛ばないようにと撤去作業を手伝ったことを思い出しました。
そうか、あのヨシズには、そういう意味があったのかと、この時初めて納得。
そろそろ最後って時に掘った産卵巣は、全部の卵が孵化しておらず、中を開けてみると、発生した様子もありません。Sさんの結論は、未受精卵。ウミガメは、鶏と一緒で、受精していなくても、卵を産んでしまうそうで、その産卵巣の母ガメは、交尾をせずに産卵してしまったのだろうと言うことでした。
その原因のひとつして考えられるのは、人工孵化。以前、書いたように、ウミガメの雌雄を決定するのは、産卵巣の温度だそうですが、保護のために、孵化場に移植した卵は、温度の高い状態に置かれたため、雌のカメが多く生まれたのではないか? その影響で、雄ガメが少なく、交尾する機会を持てない雌が多いのではないか? という推測があるそうです。
ウミガメの雄は、ハーレム状態ってわけですね。それにしても、野生動物を保護するってことが、いかに大変なことなのか、その一端を垣間見た気がしました。
この日は、夜に、Sさんのレクチャーが予定されていました。そのお話も、実に興味深いものでした。詳しくは次回。
posted by tady at 23:16| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ベニーニ、ベルルスコーニを応援?

チェレンターノのRockpolitikの2回目が放送された。ゲストにはロベルト・ベニーニが登場。
1回目の出演は断ったようだけど、2回目に現れた。
レプッブリカのサイトに、音源へのリンクがあって、ベニーニのジョーク満載のショーの一部を聞くことが出来た。
いやー、さすがベニーニ! って感じで、面白かったし、胸がすっとした。ざっと要約するとこんな感じ。
「やあシルヴュッチョ(シルヴィオ・ベルルスコーニのことね)、元気? これは政治と違うショーなんだから、あんまり怒るなよ。笑いは民主主義の活性剤、笑いがあるのは健全なことさ。どうせテレビの前で、メモってるんだろうけど(前回の放送後、ベルルスコーニは、インタビューの中で「どうしてお笑いの連中は、私のことをネタにして笑いものにするのか」と不満を述べて、彼をネタにした芸人の名前を列挙した。つまりは、テレビを見てチェックしてるってことね)。君は、お笑いのネタになるって文句を言うけど、注目されてるってことなんだから。それに君をネタにしないと失業者が増えちゃうでしょ。今日はね、君を応援しに来たんだよ。ねえ、政治家なんかやめちゃって、こっちにおいでよ。こここそが、本当の自由の家さ(自由の家とは、与党中道右派連合のこと)、なんでも言いたいことを言えるんだから。プロディのくそったれ! 馬鹿野郎! ブーーー ほらね(プロディは野党のリーダー)」
実に、見事で、鮮やかな話術だった。映像も見たかったな。
posted by tady at 09:57| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月27日

ボニン・アイランド19

9月30日
この日の朝は、別段変わったこともなく(といっても海洋センターの日常ってあんまり知らないから僕にとってはってことですが)、いつも通りに8時にカメさんに餌やり。しかし、所長さんから、今日は天パトに行ってねと言われる。天パトとは天然浜パトロールの略です。
前日に海洋センターに到着したNさんとKさんは、来るなりまず、船の状態をチェックしてました。
海洋センターには、ウミガメや鯨の調査をするために、2艘の船があります。台風が来たために、陸に上げてあったんだけど、雨がたくさん降ったので、船の中は水浸しでした。確かに前日、その水を抜いて、大きい方の船を水産センターのある港に運んでいたのは、ちょこっと手伝ったので知ってました。そして、この日はその船に乗って、天然浜にあるウミガメの産卵巣の調査に行くことになっていることも。海は台風の影響でうねりがあり、僕はあんまり泳げないと言ってあったので、全く人ごとのように思っていたのだけれど、突然の指名。そう言えば、前日にSさんが、どれくらい泳げるのと僕に尋ねたので、まあプールだったら50メートルくらいはなんとかって答えたら、それじゃOKだねと言っていたことを思い出しました。もうこれはアチャーって感じでした。
ボランティアやスタッフからは、天パトは大変だよ。朝出たら夕方まで、ずっと調査だからって聞かされていたし、かなりヤバイなぁーと思いました。
その日は、うねりがあるので二見湾内にある浜を調査すると言う話と、船は岸のギリギリまで着けるから、そんなに泳がなくても大丈夫って話を聞いてちょっと安心。
餌やりもそこそこに、8時半頃から、調査に行く人たち6名分(僕もその一人でしたが)のお弁当作りを手伝い、9時過ぎには出発してました。
調査に向かったのは、境浦。前日、戦跡を案内してもらった時に、陸側から沈船を見た場所でした。うねりはあったものの、湾内はそれほどでもなく、船を岸ギリギリまで着けて、下船。小笠原に来て初めて海に入りました。多分僕みたいな人は珍しいだろな。9月22日に小笠原に初めて来て、9月30日に初めて海に入りました。
小笠原では、普段はみんなサンダル履きです。それも漁サンという、漁師さん達が船の上で履く滑り止めの付いたサンダル。僕は、現地に着いたら買おうと思いつつも、結局買うのを忘れ、海洋センターにあった漁サンを借りて履いていました。で、海にはいる時も漁サンを履いたまま入ります。父島の海岸は、珊瑚や岩場が多く、足に何か履いていないと怪我をするという話も聞いていましたし、調査のためには、砂浜(だけじゃなくかなり海岸線から奥まで)を歩かなければならないからでもあります。
しかし、漁サンを履いたまま泳ぐのは至難の業。親指をギュッと締めれば大丈夫って言われても、中々出来ない。海に入った途端に脱げてしまって、焦りました。まあ、浮いてくるので、しらばく待っていれば回収はできるのですが、、、
天然浜は、ウミガメが産卵に来る時期に調査をしていて、産卵巣を記録してあります。そのノートを見ながら、ちゃんと孵化して脱出しているかを調べるのが今回の調査の目的でした。
ところがどっこい、記録に漏れている産卵巣もたくさんあるのです。産卵巣発見ツールの鉄棒を持って、砂浜を調べていきます。僕は、見つかった場所をひたすら掘る仕事。産卵巣の場所は、必ずしも砂地ではなく、海岸線から少し入った林の中だったりするので、茂っている草を取り除き、根っこを切って掘り進むのですが、シャベルやスコップは表面を掘る時だけ、後は素手で掘ります。それは、産卵巣の中には、孵化しなかった卵があったり、脱出できなかった稚ガメがいたりするからです。それをこわしたり、傷つけてはいけないので、指先に神経を集中し、掘っていきます。
指先は傷だらけになりますが、砂の中で、モゾモゾと動く、脱出しそこねた稚ガメを取り出した時の感動は、なかなかのものでした。オーーこいつを救うことが出来たな! っていう満足感というか、必死で生きようとする生命の力強さに対する畏怖というか、砂まみれ、汗まみれになりながらも、充実した時間でした。
そんな作業をしていると時間が経つのはあっという間。きりの良いところでお昼にしたのですが、その時はもう2時になっていました。
お弁当を食べて、一休みした後は、調査を続行。結局この日は6時頃まで調査をして、約60箇所の産卵巣を掘り出しました。帰りの船の上から見た夕日は本当に綺麗でした。残念なことに、ずぶ濡れ&砂まみれになると聞いていたので、デジカメは持っておらず、写真は撮れませんでした。
海洋センターに帰って、シャワーを浴び、夕食。この日は、NさんとKさんが実に手際よく料理をしてくれました。Sさんからは、発泡酒の差し入れがあり、ご苦労さんとみんなで乾杯。
夕食後Kさんと、ちょっとだけ、人生についてや小笠原のこれからについて話しました。
若いボランティアも、いろいろな人生経験を経てきたと思われるスタッフの人たちも、みんなユニークで、小笠原でなければ会えない人たちであり、また、そういう人たちを惹きつけるのが小笠原なんだろうなーと思いました。島を離れるまで、後二日というのが、とっても残念で、去りがたい気持ちが募った夜でありました。
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私たちほど、改革を進めた政府はない

この4年間、私たちは実によくやってきた。我々ほど、改革を進めた政府はない。

さて、これは誰でしょう? 小泉さんが言いそうなことだが、イタリアの首相ベルルスコーニの言葉だ(コリエレの見出しから)。
日本では、自民党が大勝し、小泉首相のお目付役が、誰もいない状態になっているが、イタリアでは、大統領がきちんと首相のお目付役として、苦言を呈している。

イタリアの実業家に贈られるカヴァリエーレ・デル・ラヴォーロ功労賞の授与式で演説したチャンピ大統領は、イタリアの経済に回復の兆しが見えてきたという認識を示したほか、現在の政治状況について、国のことを最優先に考えるべきだと述べた。
これは、自分の政党や権力を守るための選挙法の改革や憲法を改革してのdevolution法の制定などを推し進めるベルルスコーニに対する痛烈な批判という訳だ。
確かにいろんな改革はやってるみたいだけど、果たしてそれが国民の方を向いているのかどうかは、かなり疑わしい。

それにしても、どこかと似ている。
posted by tady at 14:06| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月26日

ボニン・アイランド18

今回の小笠原行きは、全行程12日。行きと帰りで2日間取られてるから、実質は10日間の滞在だった。なのに、何故かもう18回目。そして話はまだ9月29日です。うーん話が脱線しすぎてるかも、、、
では、9月29日
この日の朝は、雷の音で目が覚めた。次の台風の影響らしい。雷が鳴るのは珍しいと海洋センターのスタッフも言ってた。台風と台風に挟まれた天気にはあんまり恵まれない小笠原滞在だった。
朝から雨が激しく降り出し、外の作業はできない。ほぼ一日、事務所の中で内職仕事をした。
仕事の内容は、封筒に海洋センターの住所をコピーした紙を貼ると言うもの。海洋センターのホームページで、その歴史を見てもらうと分かるのだが、かつて財団だった頃の封筒が、たくさん残っていて、それを無駄にしないために、せっせと新しい名称と住所をプリントした紙を貼っていく作業ってわけ。根気のいる作業だけど、単純労働。ただ、だらだらやってると達成感がなく、挫折するので、封筒の枚数を数え、「よし、何枚出来た!」って具合に目標を自ら設定して、頑張りました。
この日は、入港日で、新しい人(といっても僕にとってってことで、海洋センターを支えている重要な人たち)が、3人到着することになっていた。
お昼頃に、その人たちが海洋センターに到着。ここの面白いところは、別段きちんとした紹介がないこと。一緒に居れば、そのうち分かるでしょって感じで、いかにも大雑把というか大らかというか、、、僕自身は名刺持ちでもないし(昔から名刺持ちと定期持ちにはなりたくないと思ってました)、都会にいても、名刺の交換などしたこともない人間なんで、違和感はそれほどなかったけど、そういう世界にいる人だったら、きっと大いに戸惑うのだろうなと思ったりした。
さて、やってきた3人は、海洋センターの運営と施設内管理を任されているというNPO日本ウミガメ協議会の副会長で、自らは、NPO法人エバーラスティング・ネイチャー(ELNA)を主催されているSさん(こう書くととっても偉いそうな人ですが、実際とっても偉い人らしいですが、いたって気さくな、笑顔の素敵なおじさんでした。この先生から、短期間でしたが、いろいろなことを学びました)。海洋センターのボランティアOBで、現在はELNAで働いているNさん。そして海洋センターのスタッフで一時内地に戻っていて帰島したKさんだった。
もちろん僕は初対面で、この時にどんな人たちか分かっていたわけではなく、なにやら頼れる助っ人みたいな人たちがやってきたなぁーと感じた次第。
それもそのはず、Sさんは、元々海洋センターを立ち上げた人だそうだし、Nさんは、1年間もここでボランティアをした経験者。そしてKさんは、海が大好きで船の操作はバッチリって人でした。
こういうことを知ったのもこの後のこと。Sさんは別格としても、あとの二人が来たことで、海洋センターの雰囲気ががらっと変わったのが感じられた。年齢的にも、ボランティアの人たちの兄貴分って感じで、この3人が来ると調査が忙しくなるから休みを先の取っておいた方が良いと所長さんが言っていたのを実感。実際次の日から、天パトバリバリの日々が始まりました。
でも、その前に、彼らが来たことで、その日の夜から状況は一変。夕食には、発泡酒の差し入れがあり、普段あまりお酒を飲まないボランティアも、一杯飲んで良い感じ。地元の知り合いの人も遊びに来たりして、夕食後までにぎやか。それでいてやることはちゃんとやる人たちで、Kさんは、稚ガメの放流に出かけるし、Nさんは地元の人との交流会へ。僕はそこそこ飲んで、寝ちゃったんだけど、Kさんが帰ってきてからボランティアの何人かは夜釣りに出かけたそうで、翌日聞いたら帰ってきたのは2時過ぎだったとか。帰る間際になって、またもや新たなる展開を迎えたのでした。
posted by tady at 23:28| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

学生デモの写真

レップブリカコリエレに写真が掲載されてます。
posted by tady at 00:08| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月25日

Che gioia vivere(生きる歓び)

NHKのBSで、アランドロン主演の映画をやっていて、今晩は、ルネ・クレマン監督の「生きる歓び」だった。フランス・イタリアの共同制作ってことなので、フランス語だろうと思っていたら、吹き替えなしの字幕で、言葉はイタリア語だった。そんなわけで、ついつい見てしまいました。
ネットで調べてみたら、政治コメディに分類されていた。
まあ、確かにコメディではあるんだけど、描かれている1920年代初めのイタリアの社会状況と思想についての知識があると、別の意味で楽しめる映画だと思った。
映画に登場するのは、アナキストとファシストと王党派の人々だ。
社会党員だった、ムッソリーニがファシストの党を作ったのは1921年。ムッソリーニって最初は社会党員だったんです。wikipediaを見ると面白いのは、ベニート・ムッソリーニの名前の由来は、メキシコ初代大統領のベニート・ファーレスからとったって話。
ファシスト党員を動員しての、Marcia su Roma=ローマ進軍により、当時の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世がビビッて、ムッソリーニを合法的な形で、国家元首にしちゃったのが1922年だ。国王がファシズムにお墨付きを与えてしまったわけだ。その反省から、戦後、イタリアの王族は、国外追放となり、未だにイタリアに入国することを法律で禁じている。
この映画の背景は、多分1920年ころの話。ファシスト党は、まだ、権力を持っておらず、王党派は、別にいて、アナキストたちと対立していた時期であろう。
この映画の中でも、イタリア国外から来たアナキストは、爆弾を仕掛けるテロリストとして描かれていて、イタリアのアナキストは、平和を求める人たちとして描かれている。
アナキズムって、とかく危険な思想と思われがちなのは、体制や国家、権力を認めないって考え方。だから、一般の人々がよりどころとしているものをことごとく否定しているので、余計に不安感を煽ってしまうのかもしれない。まあアナキズムにもいろいろあるわけです。

僕の知り合いで、イタリア緑の党の国会議員になった人がいるけど(今は議員をやってませんが)、彼が若いころは、アナキストで、徴兵制に反対していて、徴兵期間を牢獄で過ごしたと言ってた。普通、イタリアで徴兵拒否をする場合、兵士になる代わりに、社会奉仕活動を兵役期間+αやることで、兵役の代わりとする制度があったんだけど、彼は、兵役を課す国家自体を認めないという立場から、兵役自体を否定して、兵役の代わりの社会奉仕活動も認めず、牢獄につながれたって訳。

映画に描かれている当時の時代背景と思想の状況を理解してこの映画を見ると、ファシズムの暗い影が忍び寄ってくる中で、それを吹き飛ばすように生きる人たちがいたって話しに見えてくる。タイトルも「生きる歓び」だもんね。これは、マストロヤンニとソフィアローレンの「特別な一日」やベニーニの「ライフ・イズ・ビューティフル」にもつながる系譜の映画なんだなって思って見ました。
posted by tady at 23:54| ローマ ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

速報 ローマの学生デモ5万人

現在時刻(日本時間10月25日午後8時)ローマは午後1時ですが、先にお伝えした、ローマの学生デモの速報が、レップブリカのwebサイトにもコリエレのにも出てます。
イタリア各地から集まった、大学生、高校生、大学の研究者など含めて5万人のデモとなったようです。
現在進行形で、学校法案は、国会で審議中。デモコースの途中にあるラルゴ・アルジェンティーナでは、顔をバンダナで隠した小さなグループが国会方面へ向かおうとして、警官隊と小競り合いをした模様。
そのうち、写真も掲載されると思うので、その時はまた、御報告します。とりあえず速報ってことで、、
posted by tady at 20:03| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ボニン・アイランド17

前回、小笠原のお墓の話を書いたのだが、そのお墓が象徴しているように、小笠原のコミュニティーは、同じ島でも、沖縄とはずいぶんと違う。
僕自身は沖縄に行ったことがないので何とも言えないのだけれど、でも、知識として持っている沖縄と小笠原を比較するだけでも、その違いが分かる。
例えば、沖縄には、琉球王朝の歴史があり、沖縄民謡があり、沖縄料理があり、沖縄独特の風習やらしきたりがある。
翻って、小笠原は、1830年にアメリカ人とハワイ人が移住して定住したのが、住民としては最初になる。
wikipediaにある沖縄小笠原の歴史を比較してみると面白い。
自然条件によるものが大きかったのは確かだろう。沖縄には、台湾や大陸から人が入ってきたのに対して、小笠原諸島は、本当に太平洋の絶海の中に位置しているのだから。
さらに、小笠原は、戦争中に全島民6886人の強制疎開を経験している。ちょっと詳しい年表がここにあった。
小笠原の事について、調べていたら、この時に、島民の多くが、東京と埼玉に疎開していたため、現在の小笠原方言には、埼玉の方言が混ざっているという。
小笠原の伝統芸能といえば、例えば、「南洋踊り」(昔は土人踊りと言ったらしいが、差別的であるとのことで、名称を変えたらしい)がある。現在は東京都無形民俗文化財に指定されているが、これも、太平洋の島から持ち込まれたものだ。今もパラオ共和国との交流があるようだ。
小笠原が日本に返還されたのは、沖縄返還に先立つこと4年前の1968年だった。先の年表によると、この時の父島の人口は、285名とある。
つまり、小笠原のコミュニティーを形成しているのは、多くの移住者ということらしい。
未だ、形成途上にあるコミュニティーだからこそ、移住者にとっては、居心地がいいっていう面もあるようだ。実際に住んでみたわけではないので、何とも言えないけど、少なくと今回の滞在からの経験では、かなり居心地がよかった。

次回からは、また、ボランティアの話に戻ります。
posted by tady at 17:27| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今日は学生たちがローマでデモ

先日、高校生たちが、学校法の改悪に反対して、イタリア各地でデモを行ったことを伝えたが、今日10月25日は、ローマで、大学生たちを中心に全国規模のデモが行われることになっている。
ローマの共和国広場に集合し、午前10時にナボナ広場に向けて出発する予定。
ナポリ、フィレンツェ、ミラノから、長距離バスが出るそうで、どれくらいの人数が参加するのか、ちょっと興味がある。
イタリアの場合、何かあるとすぐに数万単位の人が集まる。僕もイタリア滞在中に何度もそういった集会やデモに参加したけれど、あの高揚感はなかなかのもの。そんな中で旧友と再会なんてこともあった。
今回は、若い学生たち中心のデモだろうから、僕の友人が参加することはないかもしれない。でも、そういった伝統が、若い連中にもちゃんと受け継がれているのは、とっても羨ましい気がする。それだけ、大人の側も、努力はしているんだと思うけど、、、

大人と言えば、一昨日は、ボローニャで、学生と警官隊の衝突があり、デモの参加者7人が負傷したらしい(中には、市長と学生たちの仲介役を買って出た、共産主義再建党の市議会議員もいたらしい)。ボローニャは、かつては赤い州都と言われた共産党の強いエミリア・ローマーニャ州の都市で、市長もずっと左派系の人が務めていた。ところが、前々回の選挙では、右派が勝利、そしてそのリベンジで、前回の選挙では、左派のコフェラーティが勝利して市長となった。
コフェラーティは、1994年から2002年まで、イタリア三大労連の中でも最も左であるイタリア労働総同盟=CGILの書記局長を務めた人だ。
ところが、ここに来て、彼の市政が保守的で人種差別的であると反発する、より左の人たちが出てきたことで、今回の混乱が起きたようだ。コフェラーティは、違法に占拠されている家屋を撤去すると言っており、学生たちはそれに反対している。占拠された家屋には、密入国したルーマニア人などが住んでいるらしい。
ボローニャは、世界で初の大学がある町でもあり、多くの学生たちが勉強しているが、その大学も、今回の騒動と学校法の改悪反対運動もあり、学生たちが占拠した状態にあるようだ。
こちらも、目が離せない。
posted by tady at 13:37| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

La bamba

多分、Los lobosが歌ってヒットしたので、知っている曲だと思う。元々は、ヴェラクルスの民謡だとも、キューバが発祥だとも言われていて、本家争いでは、双方とも譲らない。
bambaとはスペイン語で、まぐれ当たりっていう意味だそうだ。ラは定冠詞です。でも、歌に歌われているのはラ・バンバっていう踊りの名前。ここで、僕が恥をかいた話をしておくと、スペイン語やイタリア語においては(多分英語もだと思うけど)撥音(プッとかブッって音ね)の前では、ンにあたる綴りは、Mになる。BやPの前にンがある時はMになるってこと。だからバンバはbamba。きっと知ってる人は知ってると思うんだけれど、僕は知らなくて、恥をかいたことがあった。カンパニーはcompany、コロンブスはColumbus、ポンプはpump、ジャンボはjumboってな具合(全部英語だけどやっぱりそうですな)。
ついでに、ベラクルスのことをネットで調べていたら、beracruzと書いてベラクルスと日本語表記のある会社があった。pastorっていうタコスを売ってる会社らしいが、日本人がよく間違えるのがVとB。ただ、この会社は、それを承知で、あえてBにしていると会社概要に書いてあった。
話が逸れてしまったが、ラ・バンバの話。
イタリア人作家、ピノ・カクッチが書いたメキシコの旅行紀行「la polvere di Messico」によると、この歌は、ヴェラクルスにかつて住んでいたマリブラム伯爵夫人と関係があるという。
くだんの伯爵夫人は、男好きで、愛人が一杯。でも、いらなくなった愛人は井戸に投げ込んで始末していたとか。また、当時のヴェラクルスには、海賊がしょっちゅう来ていて、伯爵夫人の家も襲われたことがあるという。その時、ある詩人が、海賊と間違われ、捕まって処刑されそうになり、自分は海賊ではないと訴えるために歌ったのが、この歌の原曲だそうだ。今では、僕は船乗りじゃないってフレーズが残っているだけだという。
Los Lobosは、1番しか歌っていないのだけれど、ネットで見つけた2番、3番の歌詞を見るとなんとなく納得した。
では、ラ・バンバ。訳詞はいつものように試訳なので、誤訳も含めてご勘弁を

ラ・バンバを踊るためには
ラ・バンバを踊るために必要なのは
ほんのちょっとの優しさ
ほんのちょっとの優しさともうひとつ
さあ元気を出して、ノッテ
ノッテ、ノッテ、ノリノリで行くぞ!
僕は、船乗りじゃない
船乗りじゃないくて、君のため
君のために、僕はいる
バンバ、バンバ
バンバ、バンバ
バンバ、バンバ
バンバ

空に登るには
空に登るのに必要なのは
大きな梯子
大きな梯子ともうひとつ小さいの
さあ、上へ、上へ
上へ、僕は上へ行くぞ
僕は、船乗りじゃない
僕は船乗りじゃない。僕はキャプテン
僕はキャプテンなんだ、キャプテン

一度は君に言ったね
一度は君に言ったね、とっても可愛かったって
君は顔を
顔を赤くしたね
さあ元気を出して、ノッテ
ノッテ、ノッテ、ノリノリで行くぞ!
僕は、船乗りじゃない
船乗りじゃないくて、君のため
君のために、僕はいる
バンバ、バンバ
バンバ、バンバ
バンバ、バンバ
バンバ

皆がラ・バンバを奏でる
皆がラ・バンバを奏でるけど、ディノス達は
それに深みを
味わいを与える。カワイらしく
さあ元気を出して、ノッテ
ノッテ、ノッテ、ノリノリで行くぞ!
僕は、船乗りじゃない
船乗りじゃないくて、君のため
君のために、僕はいる
バンバ、バンバ
バンバ、バンバ
バンバ、バンバ
バンバ


Para bailar la bamba
Para bailar la bamba se necesita
una poca de gracia
Una poca de gracia y otra cosita
Ay, arriba y arriba
Ay, arriba y arriba y arriba ire'
Yo no soy marinero
Yo no soy marinero, por ti sere'
Por ti sere', por ti sere'
Bamba, bamba
Bamba, bamba
Bamba, bamba
Bamba

Para subir al cielo
Para subir al cielo se necesita
una escalera grande
Una escalera grande y otra chiquita
Ay, arriba y arriba
Ay, arriba y arriba y arriba ire'
Yo no soy marinero
Yo no soy marinero, soy capita'n
Soy capita'n, soy capita'n

(chorus)

Una vez que te dije
Una vez que te dije que eras bonita
Se te puso la cara
Se te puso la cara coloradita
Ay, arriba y arriba
Ay, arriba y arriba y arriba ire'
Yo no soy marinero
Yo no soy marinero, por ti sere'
Por ti sere', por ti sere'

(chorus)

Muchos tocan la bamba
Muchos tocan la bamba, pero Los Dinos
le dan saborcito
Le dan saborcito, pero bonito
Ay, arriba y arriba
Ay, arriba y arriba y arriba ire'
Yo no soy marinero
Yo no soy marinero, soy capita'n
Soy capita'n, soy capita'n
posted by tady at 21:02| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | musica | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メヒコ旅行編4

しばし、間が空きましたが、ベラクルスへの旅の続き。
北米大陸縦断の旅を続けるローラースケートと自転車の二人組を見送った後、僕は、長距離バスでベラクルスへと向かった。メキシコ湾岸のほぼ中央に位置するこの港町は、メキシコの歴史にとっても重要なところだし(征服者コルテスが上陸したのがこの地)、また、キューバにとっても重要な地(カストロやゲバラを乗せたグランマ号がキューバに向けて出発したのはベラクルス州のツクスパン)だったりする。
あと有名なのは、牡蠣とカーニバル。メキシコでは、結婚してベラクルスに新婚旅行に行くというと、頑張ってこいよと言われるそうだ。牡蠣をたくさん食べて、精力つけて頑張れよってことらしい。
元々、牡蠣は好きだったのだが、メキシコでは、肝炎になる虞もあるから生ものは食べるなと、周りから言われていて、一切食べていなかった。
ところが、バスが港へはいるゲートのところで、順番待ちをしている間、車窓から外を眺めていると、運転手たちが、ゲート脇に居る人に何かをオーダーしている。よく見ると、カクテルグラスに入った生牡蠣だった。ベラクルスはとっても暑く、よく冷やした生牡蠣を啜る人たちを見て、ついに我慢が出来なくなった。
バスが港に到着すると、早速、もうどうにでもなれ! って感じで、牡蠣を売っているお店に行って食べちゃった。それがまた、美味しいこと。メキシコでは、剥き身にした生牡蠣を、カクテルグラスに入れ、ケッチャップとタバスコをたっぷりとかけ、レモン汁を絞って、コリアンダーの刻んだものを載せていた。牡蠣の甘さと、ケチャップのこく、タバスコの辛さと、レモンの酸味、それにコリアンダーの独特の香りが、渾然一体となって、口の中に広がる。
これを書いてるだけで、よだれが出てきてしまった。
腹ごしらえが済んで、港を散策していると、地元の子供たちが、海で泳いでいて、観光客の投げ入れるて、沈んでいくコインを素潜りで潜っては、ゲットしていた。子供たちは、遊び半分、仕事半分って感じだったのだが、コインを投げ入れては、子供たちが潜るのを見て楽しんでいる白人たちを見て、なんだかいやな気分になった。
その日の宿は、本当に安宿で、窓もなく、冷房もなく、あったのは天井で回っている扇風機だけ、まるで蒸し風呂の中にいるような感じだった。
ベラクルスが発祥の地と言われている歌に「ラ・バンバ」があるが、この歌にまつわる面白い話もあるらしい。それについては、歌のところで書きます。
その後、一応の目的地であったベラクルスから、メキシコシティーに向けて帰路についた。
posted by tady at 17:05| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月23日

ボニン・アイランド16

9月28日午後
お昼は、案内をしてくれた人のお家にお邪魔して、湯豆腐をご馳走になりながら、朝作ったお弁当を食べた。その後、秘蔵映像満載の太平洋戦争レーザーディスクを鑑賞。見てきたばかりの戦跡と当時の戦争の進行具合がオーバーラップして、改めて、太平洋戦争が、どのように推移したのか、歴史の勉強になった。
午後は一度海洋センターに戻り、自転車を借りて、お墓を見に行くつもりだった。というのも、僕の知り合いが、父島のお墓に眠っていることを聞いていたからだ。当初のツアーの日程では、お墓参りの時間は取れそうになく、正確な場所を聞いてこなかったので、周りの人に尋ねてみると、父島には、3箇所お墓があるという。お寺はないの?と尋ねると、誘致話は出ているけれど、現在はないとのこと。もっとも、知り合いはクリスチャンだから、お寺ってことはないんだけど。
亡くなった彼女は、元々島の人ではなく、生前にご夫婦で訪れた小笠原が気に入って、亡くなったらそこにお墓を建てて欲しいと望んでいたそうで、彼女の夫(彼も知り合いです)が、この地に墓碑を建てたのだそうだ。こう書くと、年寄り夫婦かと想像されるだろうが、実は彼女はメキシコ人で、留学で来た日本で彼と知り合い結婚。しかし、難病を患って、若くして亡くなった。彼女の祖先は、長崎で殉教し、メキシコ初の聖人となった人だという話も聞いたことがありる。
彼女の人生に思いを馳せて、お墓参りが出来ればと思い、地元の人が、島外の人だったら、多分あそこではないかと教えてくれた墓地に行った。この日の午後や天気が崩れ、時々驟雨がやってくる中、自転車を借りて出発。父島の中心部を抜け、自衛隊の基地の手前でウェザーステーション方面へと右折。急な坂道を登っているところで雨。そぼ降る雨の中、自転車を押しながら墓地に到着。残念ながら、彼女のお墓はみつからなかった。それでも、ひとつひとつ墓碑を眺めていくと、小笠原という土地の歴史が、垣間見えてくる。仏教の墓石とキリスト教の墓石が並んでいて、中には英語の墓碑銘が刻んである。なんとその中に、George Washingtonさんのお墓もあった。もちろん同姓同名の人なのだろうけれど、小笠原にジョウジ・ワシントン(墓碑には、英語とカタカナで名前が刻まれていた。その表記)が眠っているっていうのが、面白かった。
二見湾を望む斜面に墓地はあり、一番上まで登ると、湾が見渡せ、ちょうど正面に海洋センターの建物が見えた。
ogasawaracimintero.jpg
もっとゆっくり眺めていたかったのだが、雨も降っているので、早々に切り上げて、未読の漫画がある福祉センターに向かう。
僕にとって、小笠原初の宿泊場所に戻り、「夜叉」最終巻を読了。4時のカメさんへの餌やりに間に合いそうだったので、その後は、海洋センターに戻った。
周りの人は、休みなんだから、なにもするなと行ってくれたのだが、僕にとっては、小笠原に滞在していること自体が、休みな訳で、カメさんへの餌やりも、楽しみのひとつだったりした。
夕食は、ムロアジの差し入れがあって、食当の人を手伝って、アジをおろして、たたきにする。それと鶏肉のローストだった。
それにしても、充実した良い一日でした。
posted by tady at 22:56| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

週末はラーメン14

今週末も、先週と同じパターンで、急遽翻訳の仕事が入ってしまった。
でも、どうにか、ラーメン食いました。その前に、水曜日に、小笠原でお世話になったカメの先生の講演会が東京であり、仕事が終わった後、大急ぎで出かけ、途中で小杉二郎を食べてます。本当は、会場に行く途中で、未食の目黒二郎を食べようと思っていたのだけれど、水曜日は定休日。しかたなく、小杉も通り道なので、途中下車して、小杉二郎に向かう。行列があったら、時間的に無理そうなので諦めようと思っていたのだが、ラッキーなことに、すぐ座れた。
麺少なめで頼んだんだけど、全然少なくなくて、ちょっと残してしまう。豚は、茹でたてって感じで、あまり味は染みていなくて堅かった。講演会の話は、またそのうちに。オサガメの話だったんだけど、面白かった。

さて、週末こそは、翻訳の仕事をどうにかやりくりして、最近行っていない、川崎二郎に行こうと思っていたのだが、天気予報ははずれ、土曜日は雨で、自転車で出かけられなかった。それでも、ラーメンが食べたくて、車で近くの図書館に本を返しに行きながら、ちょっと足を伸ばして、白河中華を食べてきた。久しぶりに食べる澄んだスープのラーメンで美味しかったが、二郎のようにヤサイが多くないので、やや欲求不満が残った。
どうにかこうにか翻訳を頑張って、日曜日の1時近くに目途が付いたので、日曜日にもやっている鶴見二郎に、自転車で向かう。ほんとに良い天気で、急な仕事さえ入らなければ、相模大野二郎にでも行って、そのあと丹沢周辺を散策しているところだ。
鶴見川に出て、河岸の道路を下る。天気も良いし、気候もいいので、多く人々が、河川敷で遊んでいた。大綱橋付近では、なにやら撮影をやっていた。ドラマというよりもCMの撮影ぽっかたけど、、、
途中で、今まで通ったことのない道を走ってみようと曲がったのが間違いの元。あちこちグルグル回ってしまった。国道1号線が見えたので、そちらに向かって、住宅街の狭くて急な下り坂を下りると、なんと行き止まり。下ってきた坂を登るのはかんべんしてよーーって感じだったので、国道にでる、人がようやく通れるほどの狭い階段を自転車を担いで登る。
そんなこんなで、鶴見二郎に付いた時は、2時を回っていた。それでも、行列はなく、席も空いていて、直ぐに座れた。二郎には珍しく、小さな子供二人を連れた家族が二郎を食べていた。混んでる時だったら、絶対無理だろうと思った。
鶴見二郎は、何かと評判が良くないみたいだけど、僕には合っている。他の支店では、絶対な頼まない小豚を頼んだのだが、量が少なく、普通に完食。ヤサイがもう少しシャキッとして、量が多いと言うことないんだけどね。豚も美味しかったけど、量が少なかったなぁ。
帰りは、素直に、いつも通る道を選択。途中、国道1号線の高台から、丹沢の山並みと富士山がくっきりと見えた。
今度の休みこそ、山歩き+日帰り温泉+ラーメンを実行するぞーーー。後は天気が問題だな。
posted by tady at 21:56| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月22日

チェレンターノの新番組視聴率は47%

先日書いた、チェレンターノの新番組「Rockpolitik」の視聴率は、なんと47%。サントーロが登場した場面では50%だったそうだ。これは新記録らしい。
面白いのは、番組のあまりの成功に、政治家達が口を出し始めていること。
日本ではあんまり考えられないけど、与党は、偏向番組だと批判し、野党は、自由なすばらしい番組だと持ち上げている。
番組のタイトルに使われているpolitik自体、若者受けを狙っているのだと思う。イタリア語には普通はKは存在しないのだが、若者言葉ではKをよく使う。
ちなみに、イタリア語のチャットとかでも、日本語と同じように略語がよく使われている。例えば、「そこに居る」って訪ねる時に「Ci sei?」と言う発音はチ・セイ。ところがチャットなどではC6と略される。イタリア語でCはチィ、6はセイ。つまりC6でチ・セイになるってわけ。

あと、補足説明としては、昔からテレビと政治は緊密な関係にあった。
RAI=イタリア国営放送のテレビは3チャンネルあって、それぞれRAI1、RAI2、RAI3と呼ばれている。かつて、1980年代くらいまでは、それぞれのチャンネルが政治色を持っていて、1はキリスト教民主党系、2は社会党系、3は共産党系だった。
だから同じニュースを見ても、RAI1とRAI3では、報道の仕方が全然違っていたりした。
これは、新聞も例外ではなく、それぞれの新聞が政治色を持っている。
そこに、今の首相ベルルスコーニが主要民放3つ(イタリア・ウノ、レーテ4、カナレ5)を手中に収め、政界へ乗り込んできたから、イタリアのマスメディアはグチャグチャになってしまった。
ベルルスコーニがフォルツァ・イタリアを結党して、短期間のうちに首相になれたのも、もの凄い量の自分のCMをテレビで流したからだとも言われている。
つまりは、政治家達は、テレビの持つ影響力をよーく知っているからこそ、敏感に反応するってことだろう。
面白かったのは、ちょっと前に読んだ、Beppeの記事で、ネットが良いのは、みんなが自由に直にコミュニケーションができることである。にもかかわらず、イタリアの政治家で自分のブログを持っている人は、一人もいないって書いていたことだ。
もしかしたら、テレビの影響力を心配しているうちに、本当に影響力を持つのは、ネットになっているってことが、起こりそうな、あるいは既に起き始めているような気がする。
posted by tady at 15:19| ローマ ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月21日

Devolutionイタリア下院を通過

ベルルスコーニ=カヴァリェーレ=騎士さんは、選挙法の次は、憲法に手をつけた。
イタリアの下院で、憲法の改正を伴う、devolution法案が、賛成317、反対234、棄権5で可決された。国会でこの法律が審議され投票にかけられるのは3回目、成立までには、あと1回、上院を通過しなければならない。でも、成立はほぼ確実のようだ。

devolutionとは、中央政府から地方自治体への権限委譲のことを言う。
本来だったら、中央集権化から地方分権へってことで、良いことのはずなんだけど、イタリアではちょいと事情が違う。
まず、このdevolutionを推し進めてきたのが、レギスティ(レーガ・ノルド=北部同盟の支持者)たちであること。ボッシをリーダーとするレーガを取り込むために、ベルルスコーニがこの法案を支えたこと。そして、地方への権限委譲を認める一方で、首相のもつ権限が強化されるってこと。
ベルルスコーニは、かつて、大統領が大きな権力を持つフランスのような大統領制にしようと画策したことがある。もちろん、自分がそこに座るためなんだろうけどね。それくらい彼は権力志向が強い。

というわけで、野党側はこぞってこの法律に反対している。ローマ以南はみんな泥棒だ!って言ってたレーガが求める地方権限委譲は、共存のためではなく、貧しい南部を切り捨てて、北部の自分たちだけでやっていくっていう排除の性格がある。それに加えて、首相権限の強化は、これはどうみてヤバイ。
野党側は、国会でこの法律が成立してしまった場合は、国民投票にかけても、廃止に持ち込むと言っている。

どこぞの国となにやら似てる感じが、、、、郵政民営化の次は、憲法らしいし、、、
posted by tady at 17:18| ローマ ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月20日

ボニン・アイランド15

9月28日続き2
山の上の戦跡を見た後は、再び車に乗り、軍病院跡地を見に行くことになった。この病院では、多くの兵士たちが亡くなり、死体は、火葬にすると煙で敵に気づかれるとかで、近くの川に投げ捨てられたという。それらの死体は、蟹が食べてしまったとも、、、そんなことから幽霊が出るという噂のスポットになっているらしい。ところが、案内してくれていた方の携帯に電話があり、用事が出来たとのことで、急遽予定変更。小笠原ではNTTドコモの古いタイプなら携帯が使えます。
で、行ったところは、米軍の戦闘機が、撃墜された場所。境浦の手前で、車を止め、海岸側の斜面を少し降りると、撃墜された戦闘機の残骸があった。
ogasawaraplane02.jpg ogasawara-plane01.jpg
日本軍が残したものが、真っ赤に錆びているのに比べ、この残骸は、全く錆びていない。材質が鉄ではなく、アルミだからだという。
さらに、その残骸をよく見ると、リベットの数がもの凄い。
ogasawara-plane02.jpg
この残骸からでも、戦争当時の日米の兵器の違いが明らかだった。これでは、勝てるわけはなかったなと思った。
ブッシュ元大統領(現大統領の父親)は、小笠原で撃墜された経験があるそうで、パラシュートで脱出して一命は取り留めたそうだが、歴史にもしもは無いとはいうけれど、彼が小笠原で戦死していたら、現在の世界は、大きく変わっていたかもしれないなどと思ってしまう。
2002年彼は、想い出の地小笠原を訪問している。
戦闘機の残骸を見た後、境浦の沈船を左手に見ながら、海洋センター方面へ向かった。
わずか、半日の戦跡ツアーではあったけれど、僕の全く知らなかった小笠原の一面を知ることが出来て、実に密な時間を過ごすことが出来た。

コメントを頂いたこともあり、ネットでちょっと調べたら、小笠原周辺には、多くの沈船があるということを知った。沖縄のように米軍の上陸はなかったが、周辺海域では、多くの船が米軍の攻撃を受けて沈んだらしい。未だに全容は解明されていないらしい。特に昭和19年6月に全島民6886人が強制疎開をさせられ、後に残ったのは兵士のみだったこともあって、敗戦直前の状況は、分かっていないのかもしれない。軍に関する資料は、敗戦直前に機密保持のために全て焼かれてしまったとのことで、数多くある塹壕の位置なども未だに全てが分かっているわけではなく、地元の人でも知らない場所があるという。
この一事をとっても、小笠原という土地への興味が湧いてくる。
自然と人間とその歴史。かつて無人島(ぶじんじま)と呼ばれ、その後欧米系、ハワイ系の人々が住み着き、日本の領土となり、戦争の最前線になってしまい、人々が血を流し、米国に占領され、そしてダイビングの楽園になり、固有種の多いことで東洋のガラパゴスなんて呼ばれ、まさに光と影の織りなす不思議な歴史をもった島なんではないだろうかと、思い入れたっぷりに語りたくなってしまう。そのためには、もっと勉強しないとダメなんだけどね。
9月28日の午前中の話は、ここまで、午後はまた全然別の展開となりました。
posted by tady at 22:01| ローマ ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Jacopo Foのブログから

そのうち、Jacopo Fo(ノーベル文学賞受賞喜劇人Dario Foの息子ね)のブログから、何か載せようと思っていたのですが、ちょっと前までは、Audioブログってことで、彼が読む笑えるニュースが録音されてMP3のファイルになっていたので、聞き取って翻訳するまでに、タイムラグができちゃうんで躊躇してました。
しばらくぶりに覗いたら、文字ベースがメインのブログになってたんで、そこからの話題+α

10月28日に、ヴェネズエラの首都カラカスで、非識字者一掃宣言(この表現は違和感があるのですが、使いたい言葉は差別用語になるそうなんで、、、、)が出されるとのこと。
ヴェネズエラは、2年前から、キューバの協力の下、大人の非識字率を0にするキャンペーン "Yo, sí puedo"=(僕は、出来る)を展開していて、18歳以上のヴェネズエラ人140万人が文字を読み書きできるようになったそうです。さらに、中学3年生のレベルを目指して頑張っている人や大学を目指している人もいるとか。このキャンペーンで新たに800の学校が新設されたそうです。

で、この情報の出所が、キューバのGranma Internazionale / Digitale.ってサイトで、ここはイタリア語ですが、スペイン語・英語・フランス語・ポルトガル語・ドイツ語でも読めるようです。

このサイトの中に、今年、没後35年を迎えるゲヴァラにつてのリンクがあって、そこを開くと、スペイン語ですが、いろんな資料が満載でした。特に、下の方には、カストロの序文とともに、ゲヴァラのボリビアでの日記が公開されています。
スペイン語を読むのは、かなり時間かかりそうだけど、時間があったら、ちょっと読んでみようかなぁーと思ってます。
posted by tady at 14:21| ローマ ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サントーロがテレビに復帰?

ミケーレ・サントーロが、チェレンターノの新番組「Rockpolitik」でテレビに復帰するという。
かなり、びっくりなニュース。
でも、ほとんどの読者は、何のことか分かんないよね。
で、解説です。
Michele Santoroは、かつて90年代に、テレビの社会派番組の司会者として、かなり有名だった人です。日本のイメージに置き換えると、田原総一郎と久米宏を足して二で割ったような人ですかね? イタリアにいた頃は、彼の番組をよく見てましたが、イタリアの政治家たちを相手に、鮮やかに議論を展開していたのを思い出します。左派系テレビジャーナリストの雄って感じでしたね。
その後、欧州社会党からの選出で、欧州議会議員をやっていたようです。ところが、ここに来て、突然(本人は、だいぶ前から考えていた言っているようです)、議員を辞職して、イタリアテレビ界への復帰を表明しました。それも、今、さんざん騒がれているアドリアーノ・チェレンターノの新番組「Rockpolitik」が、復帰第一弾になるとか。

アドリアーノ・チェレンターノは、歌手ですが、その言動は、しばしば物議を醸しています。今回は、RAI1の新番組を任されることになって、出演条件として、RAI側が一切干渉しないことを上げたようです。ゲスト候補として、ベルルスコーニやプロディ、サパティスタの副司令官マルコスやブッシュまで名前が挙がり、RAI側は戦々恐々としていたようです。
俳優のベニーニは、出演を断り、有名なジャーナリストビアジも断ったみたいで、ここに来て、サントーロが出演すると表明したことで、イタリアのマスメディアは、かなり驚いた様子。
ただし、サントーロの辞表は、まだ正式に受理されておらず、欧州議員の肩書きが残ったままでは、規定により出演できないとRAI側は言っているようです。
どんな番組になるのか、イタリアにいたら絶対見てみたいですね。見られないのが残念です。
posted by tady at 10:56| ローマ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月19日

ベニーニの新作は順調みたい。

ベニーニの新作「La tigre e la neve」が順調に観客を動員しているようだ。
http://www.capital.it/trovacinema/classifiche_ita_usa.jsp
にあるヒットチャートによると第1位。上映初日は、俳優や映画関係者のストライキがあり(政府が文化予算をカットすることに抗議したもの)実質15日・16日の二日間の数字だが、ダントツトップだ。
http://www.capital.it/trovacinema/scheda_film.jsp?idContent=274779
のページにある「Multimedia」の下にあるTrailer以下をクリックすると、予告編のストリーミングが見られる。ちょっと重いけど、、、、
posted by tady at 16:10| ローマ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

サルガドの最新作がちょこっと見られる

レップブリカのサイトに、サルガドの最新作「ジェネシス」の一部が公開されている。
セバスチャン・サルガドは、いままでずっと人間を撮ってきたのだが、今回は、自然をかなり撮っている。公開されているのは、「ジェネシス」プロジェクトの動物の章一部だと思われる。
モノクロの写真に映し出される動物たちに魅了される。
ゾウガメなんか、まるで全てを悟りきった、枯れた老人を思わせる。
URLはここhttp://www.repubblica.it/flash/gallerie/2005/salgado/index.html
Avantiというボタンをクリックすると写真が変わる。写真の上にマウスを持って行くとキャプションが出るが、残念ながらイタリア語です。全部で10枚ありました。
posted by tady at 11:04| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアのニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月18日

ボニン・アイランド14

9月28日続き
水産センターから港へと向かう途中で右に折れ、夜明山方面へ向かう。道はかなりの登りでクネクネとカーブしている。標高が上がるに従って、なんとなく涼しい風が吹いてくる。途中、野生化した山羊を目にした。
だんだんと高くなるに従って、カーブの向こうに海が見え隠れしてきた。この日は、風はやや強かったものの、天気は良く、景色の素晴らしさに見とれてしまう。
ogasawaraview01.jpg
宇宙航空研究開発機構の前を通過。小笠原は、内地から遠く離れているのに、いや逆に内地から遠く離れているからこそ、様々な重要施設があったりする。この宇宙航空開発機構の施設は、種子島から打ち上げられたロケットを追尾する役割を担っているという。他にも、気象庁の測候所があるのだが、そこでは、上空の気象状態を調べるための気象ゾンデによる観測が行われているそうだ。
さらに登っていくと、大きなアンテナがあった。かつては米軍の通信基地だったそうで、現在は防衛庁の管理する自衛隊のための通信基地になっているらしい。アンテナが二つ立っていたが、一つは航空機用で、もう一つは潜水艦用のアンテナだと、案内をしてくれた人が言っていた。潜水艦と通信するためには、海中でも減衰しない低周波を使うためアンテナはかなりの大きさになるはずのだが、それほど大きくはなかった。横浜の瀬谷にあった米軍の通信基地の潜水艦用のアンテナは、数キロに及んでいたから、小笠原のそれは、周辺地域を航行する潜水艦用なのかもしれないと思った。
そこから、ほんの少し行ったところで路肩に車を止め、道路脇から、山に入る。急な斜面をよじ登るようにして上にたどり着くと、塹壕の口がぽっかりと開いていた。
そこから中にはいると、巨大な地下空間があった。赤く錆、鉄くずと化した戦争の遺物がそこかしこにある。さらに進むと、高射砲の残骸も。これらの兵器は、モーターによる電動駆動で、照準や射程を調節できたという。確かに、電線がずーっと引かれていた。電源は蓄電池を使っていたそうで、敵から発電のための煙などが見えないように、発電機で充電した蓄電池を山の上に持ち込み使っていたという。
父島でもっとも保存状態の良いという高射砲も見ることが出来た。
ogasawara-cannon01.jpg
戦時中には、お寺の鐘や鍋釜まで供出しなけらばならなかったという話を聞いていただけに、どうしてこんな鉄の塊が、あるんだろうと思ったのだが、話を聞いて見ると、小笠原は、戦況が逼迫する以前から、国土防衛の最前線として、かなり兵器が配備されていたらしい。兵員も同様で、戦時中は1万5千ほどの兵士が居たという。
硫黄島の激戦はあったものの、米軍がサイパンを押さえ、B29が日本本土まで到達できる距離に飛行場を確保したことで、小笠原は、米軍の攻撃を免れたらしい。
それでも、本土爆撃に赴いた爆撃機が、余った爆弾を小笠原に落としていったという。
山頂には、いくつもの高射砲陣地を結ぶため塹壕後も残っていた。
posted by tady at 21:36| ローマ | Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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