僕がキャロルを初めて見たのは、愛川欽也が司会をしているテレビ番組だった。かれこれ30年以上前のことだと思う。
その時に聞いた「ファンキー・モンキー・ベイビー」は確かに衝撃的だったけど、今更ロックンロールかよって思った記憶がある。当時中学生だった僕は、ビートルズを卒業して、ピンクフロイドに心酔していた時期だった。
キャロルの解散コンサートを扱ったNHKの番組も見ている。当時その番組のディレクターだった龍村仁が、この番組が元でNHKを去ったことも知っている。その後彼は「地球交響楽・ガイア」シリーズを製作していたりする。僕自身はガイアは全く見ていない。
だから、NHKで矢沢永吉を取り上げて、番組にするというのがとっても奇異に映った。これは全く余談だけれど、8年前に亡くなった僕の父親も同じ永吉って名前だったんだけど、僕自身は、何故か矢沢にはなんの愛着もない。
でも、40代のおじさんたちと「矢沢」を扱う番組ってことなので、見てみた。
見始めて直ぐに、レポーターが重松清だったので、「あー、やっぱりな」って思ってしまった。
彼は良い作家だと思う。日本人の小市民的心情を描かせると実にうまい。彼はNHKのお気に入りの作家みたいだ。ただ、彼が太平洋のビキニ環礁についてのドキュメンタリーをレポートした時に、非常にがっかりした記憶がある。核兵器という国際政治の中における暗闘の元となった物を扱い、また人類の歴史の中で二度と繰り返してはならない出来事をレポートしているはずなのに、そういった世界に目を向けるような視点が全くなかったからだ。
今回の番組も良くできていたと思う。みんな一生懸命生きてるよ!ってメッセージは伝わってきた。でも、だからなに? って気持ちがどうしても残る。
「矢沢」を好きだろうが、好きじゃなかろうが、一生懸命生きてる人は、みんな一生懸命生きているのだ。でも、そういう人たちが報われないのはなぜ? ってところまで突っ込んでいかない。
それは、政治であったり、制度であったり、個々人が作り上げている日本という社会であるわけで、そこに切り込んでいかなければ、「永ちゃんも頑張ってる。だから僕も頑張る」で終わってしまう、単なるガス抜きの番組でしかない。一見前向きに見えるようで、互いの傷口を舐め合い、仲間内で励まし合って、元気を出そうよってだけでは、本当に世の中は良くならないような気がする。
永ちゃんを見て、元気をもらう人がいてもいいし、それで頑張れるなら幸せなことだと思う。それは否定しない。でも、永ちゃんを好きならばこそ、アーティストとしての彼を、ガス抜きの道具に使ってはならないと思う。
海外のアーティストを見て思うのは、全員とは言わないまでも、きちんと意識を持っている人は、自ら政治や社会のためになることに一歩踏み込んでいる。U2のボノやつい先日、リオで無料コンサートをやったRolling Stonesだってそうだ。エルトン・ジョンだって、ゲイのために頑張ってたりする。日本人でそういったことをきんちんと意識を持ってやっているのは、坂本龍一とか、オノ・ヨーコがいるけれど、まだまだ少ないような気がする。
ビッグになればなるほど、多くの金が動くわけだし、アーティスト個人の意思ではどうにもならない部分も出てくるのであろうと想像はできるが、だからこそ、例えば永ちゃんにも、そういった意識を持ってもらえればなぁーなんて思ってしまった。
そうしたら、この番組だって、もっと違った物になっていたと思うし、もしかしたら、NHK自体、こんな番組は作れなかったかもしれない。
さて、みなさんはどう思います?
2006年02月26日
ベル・パエゼ6
ホーム・ステイすることになった家は、ローマの街中にあるものの、いわゆる庶民の人たちが多く住んでいるところで、決して大きな家ではなかった。僕がステイすることで、4歳の女の子は、自分の部屋を取られてしまって、ソファーで寝ることになった。
すぐそばには、大きな市場があって、毎朝多くの店が立ち、活気にあふれていた。
イタリアに到着した初日の晩、留学団体のスタッフが、夜の街に、ビールを飲みに連れて行ってくれた。一番最初に覚えた単語は、ビヤホール=ビレッリア=Birreriaだったと思う。(これは後日談だが、そのお店にもう一度行ってみたいと思って探したのだが、結局見つけることは出来なかった)。
日本では、グイグイと飲むビールを、みんなチビリチビリと飲んでいたのが印象的だった。
イタリアでは、ワインは水みたいなもので、実際、ミネラルウォーターとハウスワインの価格は、ワインの方が安いくらいだ。やはりワインの国である。
それに比べてビールはやや高い。当時の若者たちは、折角夜外出するなら、ちょっと高めのビールを飲みたいって雰囲気があったのではないかと、今振り返って見て、思う。だからチビチビ。
帰りは、車で送ってくれるというので、ステイする家のすぐそばまで来たところで、ここでいいというと、危ないから、家の前まで送るという。そしてきちんと建物の玄関のドアを開けて、その中に入るまで見送ってくれた。やはりローマはいろいろとヤバイ町なのかもしれないと実感。
もっとも、ローマに生活に慣れてくると、よく、一人で映画を見に行ったり、コンサートに行ったりと、夜で歩くようになったが、それは言葉が出来、状況判断が出来るようになってからのことだ。
さて、ステイ先の家には、すぐに、語学研修のためのキャンプに行くことになっていて、最初はわずか数日の滞在だった。それでも、一般的なイタリア人にとっては、バカンスシーズンだったわけで、わざわざ僕のために、バカンスに行くのを遅らせてくれていたらしい。
スペイン語は分かったものの、イタリア語はチンプンカンプン。朝起きると、なにやら夫婦喧嘩をしている様子。遠慮しながら部屋を出る。また、そのころ、ご飯のメニューが僕だけ違っていた。なんとなく居づらくなってしまう。
ところが、これは大きな勘違いだったことが後から分かる。
夫婦喧嘩だと思ったのは、単なる普通の日常会話。メニューが違ったのは、家族は残り物を食べていたのに、僕にはきちんと作ってくれていたから。
今だから、笑い話になるのだが、異文化との出会いってこんなものなのかもしれないと思う。
数日後、僕は、語学研修キャンプに参加するためにマントバ近郊の村へと向かい、家族はバカンスへと出かけた。
すぐそばには、大きな市場があって、毎朝多くの店が立ち、活気にあふれていた。
イタリアに到着した初日の晩、留学団体のスタッフが、夜の街に、ビールを飲みに連れて行ってくれた。一番最初に覚えた単語は、ビヤホール=ビレッリア=Birreriaだったと思う。(これは後日談だが、そのお店にもう一度行ってみたいと思って探したのだが、結局見つけることは出来なかった)。
日本では、グイグイと飲むビールを、みんなチビリチビリと飲んでいたのが印象的だった。
イタリアでは、ワインは水みたいなもので、実際、ミネラルウォーターとハウスワインの価格は、ワインの方が安いくらいだ。やはりワインの国である。
それに比べてビールはやや高い。当時の若者たちは、折角夜外出するなら、ちょっと高めのビールを飲みたいって雰囲気があったのではないかと、今振り返って見て、思う。だからチビチビ。
帰りは、車で送ってくれるというので、ステイする家のすぐそばまで来たところで、ここでいいというと、危ないから、家の前まで送るという。そしてきちんと建物の玄関のドアを開けて、その中に入るまで見送ってくれた。やはりローマはいろいろとヤバイ町なのかもしれないと実感。
もっとも、ローマに生活に慣れてくると、よく、一人で映画を見に行ったり、コンサートに行ったりと、夜で歩くようになったが、それは言葉が出来、状況判断が出来るようになってからのことだ。
さて、ステイ先の家には、すぐに、語学研修のためのキャンプに行くことになっていて、最初はわずか数日の滞在だった。それでも、一般的なイタリア人にとっては、バカンスシーズンだったわけで、わざわざ僕のために、バカンスに行くのを遅らせてくれていたらしい。
スペイン語は分かったものの、イタリア語はチンプンカンプン。朝起きると、なにやら夫婦喧嘩をしている様子。遠慮しながら部屋を出る。また、そのころ、ご飯のメニューが僕だけ違っていた。なんとなく居づらくなってしまう。
ところが、これは大きな勘違いだったことが後から分かる。
夫婦喧嘩だと思ったのは、単なる普通の日常会話。メニューが違ったのは、家族は残り物を食べていたのに、僕にはきちんと作ってくれていたから。
今だから、笑い話になるのだが、異文化との出会いってこんなものなのかもしれないと思う。
数日後、僕は、語学研修キャンプに参加するためにマントバ近郊の村へと向かい、家族はバカンスへと出かけた。
ボニン・アイランドpart2その11
1月1日続き
お雑煮遅めのお昼を食べた後は、元旦から通常業務。海洋センターにとっては(多分小笠原の多くの宿やお店にとっても)書き入れ時だからだ。
年末のうちにやりきれなかった、海洋センター敷地内の落ち葉拾いとか、海洋センターの目の前の海岸のごみ拾いなどもする。
夕食は、差し入れのあった魚の塩焼きやお手製の島寿司、それに御節とご馳走。みんなで楽しい夕食となる。
夕食後、僕は自転車を借りて、洋上オフ会の続きともいえる、父島オフ会に向かう。元旦から、それも父島で集まるオフ会っていうのも、いろんなオフ会がある中でも、きっとかなーり変わっているかも、、、
1次会ちょっとこじゃれたお店で、自己紹介を中心に。首都圏以外から来ていた人も居たり、初めて小笠原を訪れる人から数十回って人まで様々。総勢11人のオフ会だった。
2次会は、4名でカラオケのあるスナックへ。そこで働いている人も、ネット仲間。
お客さんは、地元の人がほとんどってお店で、知り合いでも居なければ、絶対入らないお店かもしれない。でも、雰囲気はとってもフレンドリー。
洋上で一緒だった、聴覚障害者の人も2次会に参加。カラオケを歌ってくれた。1次会では席が離れていたので、他の人が筆談で会話していたのだけれど、2次会は、もっぱら僕が筆談してました。音が聞こえないのにどうやってカラオケを覚える? って聞いたら、自分でも音程が合っているかどうか分からないとのこと。彼は、耳の聞こえない人よりも、耳の聞こえる人と仕事をしているので、カラオケにも良く行くとのこと。筆談で話しながら、手話を勉強しておけばよかったと思った。
で、彼のカラオケ。実に良かった。北島三郎の歌を歌ったのだけれど、途中にせりふがあり、そこは、手話でせりふが語られる。カラオケの画面に流れる歌詞と、彼の手話を同時に見ると、手話の意味が分かるのが面白かった。歌っている時は、マイクを持っているので、ちょっと片手だけの手話になるんだけど、「カラオケで学ぶ手話」見たいなビデオがあれば、手話もずっと学びやすくなるのではないのかと思った。彼が聴覚障害者だとは知らなかったお店のお客さんたちも、一緒に拍手してくれて、とってもいい雰囲気だった。
彼との筆談で、手話にも方言があることを知った。黒って色は、髪の毛を撫ぜるしぐさなのだそうだが、オフ会を主催した方は、白髪だったので、「僕の場合は白になっちゃうね」なんて話もでた。
僕も何曲か歌って、ちょうどよい酔い加減で、海洋センターまで自転車で戻った。
お雑煮遅めのお昼を食べた後は、元旦から通常業務。海洋センターにとっては(多分小笠原の多くの宿やお店にとっても)書き入れ時だからだ。
年末のうちにやりきれなかった、海洋センター敷地内の落ち葉拾いとか、海洋センターの目の前の海岸のごみ拾いなどもする。
夕食は、差し入れのあった魚の塩焼きやお手製の島寿司、それに御節とご馳走。みんなで楽しい夕食となる。
夕食後、僕は自転車を借りて、洋上オフ会の続きともいえる、父島オフ会に向かう。元旦から、それも父島で集まるオフ会っていうのも、いろんなオフ会がある中でも、きっとかなーり変わっているかも、、、
1次会ちょっとこじゃれたお店で、自己紹介を中心に。首都圏以外から来ていた人も居たり、初めて小笠原を訪れる人から数十回って人まで様々。総勢11人のオフ会だった。
2次会は、4名でカラオケのあるスナックへ。そこで働いている人も、ネット仲間。
お客さんは、地元の人がほとんどってお店で、知り合いでも居なければ、絶対入らないお店かもしれない。でも、雰囲気はとってもフレンドリー。
洋上で一緒だった、聴覚障害者の人も2次会に参加。カラオケを歌ってくれた。1次会では席が離れていたので、他の人が筆談で会話していたのだけれど、2次会は、もっぱら僕が筆談してました。音が聞こえないのにどうやってカラオケを覚える? って聞いたら、自分でも音程が合っているかどうか分からないとのこと。彼は、耳の聞こえない人よりも、耳の聞こえる人と仕事をしているので、カラオケにも良く行くとのこと。筆談で話しながら、手話を勉強しておけばよかったと思った。
で、彼のカラオケ。実に良かった。北島三郎の歌を歌ったのだけれど、途中にせりふがあり、そこは、手話でせりふが語られる。カラオケの画面に流れる歌詞と、彼の手話を同時に見ると、手話の意味が分かるのが面白かった。歌っている時は、マイクを持っているので、ちょっと片手だけの手話になるんだけど、「カラオケで学ぶ手話」見たいなビデオがあれば、手話もずっと学びやすくなるのではないのかと思った。彼が聴覚障害者だとは知らなかったお店のお客さんたちも、一緒に拍手してくれて、とってもいい雰囲気だった。
彼との筆談で、手話にも方言があることを知った。黒って色は、髪の毛を撫ぜるしぐさなのだそうだが、オフ会を主催した方は、白髪だったので、「僕の場合は白になっちゃうね」なんて話もでた。
僕も何曲か歌って、ちょうどよい酔い加減で、海洋センターまで自転車で戻った。

