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今年は、仕事が休めないこともあり、全作品を見ることはできないのだが、職場に無理を言って、期間中に3日間の休みをもらった。
あらかじめ、イタリアの友人にメールを送り、見た方が良いと思われる作品も聞いておいた。
ただし、聞いたのは20代の若者なので、推薦してくれたのは、比較的若い世代の監督作品が多かった。
そんな中で、選んだのは、初日の1日に上映される作品のうちの2本と2日上映される作品2本。そして、5日に上映される作品のうちの1本と相成った。
で、まずは初日に見た2作品+短篇から
5月1日最初に上映されたのは、フェルザン・オズペテク監督の「Saturno contro=対角に土星」だったんだけど、友人の評価はあまり高くなくパス。
2番目に上映された「Non pensarci=考えてもムダさ」から見ることにした。
5月1日から3日の間は、各作品上映前に、上映される映画関係者の舞台挨拶がある。
「考えてもムダさ」の舞台挨拶は、監督のジャンニ・ザナージと主演のヴァレリオ・マスタアンドレアが来日しており、舞台挨拶があった。
本編上映に先立ち、短篇「たまご」が上映されたが、これもなかなか面白かった。
「考えてもムダさ」
主人公は、故郷からローマに出てきた、一時期はそこそこ売れたロックミュージシャン35歳。
今は、若い連中にちょっとついてけないと感じている。
ライブハウスでコンサートをやったのだが、若いヴォーカリストがダイブをしたのに、誰も受け止めてくれず、肩を打撲してコンサートは中止。予定より早く家に帰ると恋人の浮気現場に出くわしてしまう。
ローマでの生活に失望し、家族のいる故郷に帰るのだが、そこにも様々な問題が山積していた。
パンクロックのギタリストである主人公の実家は、食品加工工場を経営する裕福な家庭。しかし、父親から経営を受け継いだ兄が、経営に失敗し、倒産の危機に直面していた。
この作品を見ようかな? と思ったのは、若くはない主人公の話って解説があったから、、、
感想としては、イタリアの地方のそれなりに裕福だった家庭が没落していく様が、深刻ではなくわりとユーモラスに描かれているってこと。
そして、一家が危機に陥った時、家族はどうするのかっていう描写が面白かった。怪しげなセラピーが出てきたり、水族館でイルカに癒されたり、それでいて、主人公も含めて金策に走り回ったり。
いろいろあるけど、「考えてもムダさ」なるようになるよって感じかもしれない。
ただ、ネガティヴに投げやりなのではない。淡々とやることはやりつつも仕方ないよねって感じ。
ラストシーンが暗示的で、ローマに戻った主人公が、コンサートの最中、ギターを置き、観客に向かってダイブする飛んでるところで終わる。
投げやりに飛ぶのではなく、果たして観客はダイブした自分を受け止めてくれるのだろうか? と思いつつ、それでも人を信じてみるかって思いを込めてのダイブなのだろうと僕は思った。
上映後、主演のマスタアンドレアと監督への質疑応答があった。
映画を見ていて、まだ未見ながら、原作を読んだカオス・カルモとの類似点が気になったので、それについて質問してみた。
僕が似ていると思ったのは、様々な人が主人公に告白をし、抱えている問題を語るってことと、家族・子供の描写だった。
回答は、それほど類似しているとは思えないけど、家族を扱っているという意味では、そうかもしれないってことだった。
全編にクラシックからパンクまで、様々な音楽が使われており、音楽の使い方って意味でも面白い作品だった。
次に上映されたのが、「La guista distanza=まなざしの長さをはかって」だったが、上映に先だって、開会式があり、来日ゲストが舞台に勢ぞろいした。
右から、La ragazza del lago=湖のほとりで」の監督アンドレア・モライヨーリ
Non pensarci=考えてもムダさの監督ジャンニ・ザナージ
La giusta distanaz=まなざしの長さをはかっての女優ヴァレンテーナ・ロドヴィーニ
考えてもムダさ主演のヴァレリオ・マスタアンドレア
Giorni e Nuvole=日々と雲行きの女優アルバ・ロルヴァルケ
である。
「La giusta distanza=まなざしの長さをはかって」
ポー川河口近くの小さな村に、代用教員が赴任していくる。
この若い女性教師マーラは、国際協力の活動をしており、代用教員の仕事が終わった後は、ブラジルにいくことになっていた。
小さな村にやってきた若い女性教師に、村人(特に男たち)は興味津津だ。
その中には、ジャーナリスト目指す青年ジョヴァンニやチュニジアからの移民で自動車修理工場を営むハッサンなどがいる。
地方記者となったジョヴァンニは、ベテラン記者から、記事を書くためには、感情に左右されることなく、報道の対象とLa giusta distanza=正しい距離をとらなければならないと教えられる。
やがてマーラは、ハッサンと恋に落ちるのだが、その後に悲劇が待っている。
その悲劇の真相を解明しようとするジョヴァンニ。
イタリア語の原題の意味は、「正しい距離」である。邦題は、原題の意味を必ずしも正しく伝えていない。
出演女優のヴァレンティーナが上映後の質疑応答で舞台に登場した際、原題の持つ意味について質問してみた。
僕は、この正しい距離というのは、閉鎖的な村に外部からやってきたマーラと村人の距離、移民であるハッサンと恋に落ちたマーラとの男女間の距離、そしてジャーナリストとしてジョヴァンニが感じている報道する側とされる側との距離と捉えていた。
彼女の返答は、自分と違うも=恐怖を感じるものとの距離をどうとるかという意味が込められているのではないかというものだった。そして、映画の結末にも関係するのだが、距離をとるのではなく、その距離を縮めるために飛び込むべきだというメッセージではないかとも語っていた。
前半のマーラとハッサンのラブロマンスと、その後急展開してサスペンスになるという映画の構成は、やや違和感があったが、イタリアの現在を伝えるという意味においては、興味深い作品であった。
ハッサンが、マーラへの募る思いを解消するために、街娼を買おうとするシーンがあるのだが、質疑応答の時に、そんなに娼婦がたくさんいるような治安の悪い村に、若い女性がやってきて、独り住まいをするという役をどんな気持ちで演じたのかという主旨の質問があった。
確かに、日本の社会で生きていると理解しがたいのかもしれないのだが、イタリアでは、各街毎に、そういう街娼の立つ通りや場所があるわけで、イタリアではいたって普通のシーンだと僕なんかは思ったのだが、イタリアという国を知らないと、映画の理解にちょっとギャップがあるのだろうなぁー感じたりもした。

