2010年05月14日

イタリア映画祭2010その10「それもこれもユダのせい」

さて、10本目。Davide Ferrario監督作品「それもこれもユダのせい=原題Tutta colpa di Guida」がその作品だった。
受刑囚たちの文化活動のために、舞台を創作することを依頼された演出家が主人公である。若い前衛劇の演出家であるイレーナ(ポーランド出身のKasia Smutniakが演じている)は、刑務所に勤務する神父ドン・イリディオに、受刑者たちが演じる舞台の演出を依頼される。自身は、キリスト教を信じているわけでもなく、ましてや男ばかりの受刑者たちにどのような劇を演じてもらうのか躊躇するのだが、受け入れる。
様々な罪で、収監されている受刑者たちを前に、彼女の試行錯誤が続く。
結局、キリストの受難(十字架への張り付け)をテーマに創作劇を行うことにするのがだ、犯罪を犯しているとはいえ、仁義を通す受刑者たちは、誰も裏切り者であるユダを演じようとはしない。
彼女の演出が、あまりにも前衛的でキリスト教の教義に反すると反対する神父。いかにも事なかれ主義にみえる刑務所長。自らの表現にこだわるイレーナ。そして、どう演じていいのか戸惑う受刑者たち。さらに、刑務所長とイレーナが恋仲になってしまい、それに反発する受刑者たち。

紆余曲折がありながらも、受刑者たちの心が一つとなり、舞台本番となる直前に、ラジオから政府が恩赦を行うというニュースが流れ、大半の受刑者たちは、釈放となる。

今回も監督が来日していたのだが、残念ながら、僕が見たのは2回目の上映で、監督の舞台挨拶も、上映後の質疑応答もなかった。会場で販売されていたプログラムによると、きちんとした脚本はなく、実際の刑務所で、受刑者たちを出演者として、製作を行う中で、作品が出来上がっていったということのなので、いろいろと聞いてみたいことはあったのだが、、、

映画の最後に、恩赦で刑務所を出て行く受刑者たちのシーンがあり、その後にドキュメンタリーとしての映像が流れる。映画の中では、娑婆に出て行く出演者たちが、現実には映画の撮影も終わり、本来の囚人として獄に戻っていく姿が映されている。
夢と現実の境界が明らさまに描かれているのだが、その一方で、映画に出演した本当の犯罪者であり受刑者である彼らは、どんなことを思ったのか、気になってしまった。

彼の作品は、イタリア映画祭の常連になりつつあり、監督自身も彼の作品が上映される年は、いつも来日している。僕が最初に見たのは、2005年のイタリア映画祭で見た「Dopo mezzanotte」だった。イタリア映画祭でのタイトルは、原題の日本語訳である「真夜中を過ぎて」だったが、2006年に日本でも一般公開となり、その時の邦題は「トリノ、24時からの恋人たち」となっていた。また、2007年のイタリア映画祭では、「プリモ・レーヴィの道」も上映されている。
いずれの映画も、いかにもイタリアの左翼インテリが作った作品って感じで、僕好みであった。

今回の作品も実に彼らしく、犯罪者とキリスト教と信者ではない人をうまく絡み合わせて、面白いものになっていた。
イレーナが、自分はキリスト教の信者ではないので、キリスト教に則した作品を作ってほしいといわれても出来ないと答えるシーンがあって、その時に、じゃああなたは無神論じゃなのか?と言われ、そうではないと答えるのだが、このへんの信仰に対する微妙な感じが面白かった。
イタリア語的に言うと、信者=credenteと、信者ではないnon credenteがあって、さらに神の存在自体を認めない無神論者=ateoってのがあって、イタリアの文化的には、信者ではなくても、神の存在を否定しないnon credenteは、許容範囲なのだけれど、無神論者は、許容範囲を越えてしまうって話を以前聞いたことがあるのだが、まさにそれだった。

出演者のほとんどが、プロの俳優ではなく素人、それも実際の受刑者たちであるっていうのも、この作品の面白さであり、いかにもフェラーリオらしい、実験的な作品であった。
映画として成り立たせるために、見ている側からすれば、それはないだろう!って展開もあったのだが、それを差し引いても、十分に楽しめる作品だった。
posted by tady at 21:20| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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