2006年11月17日

ローマ散歩3

Via Giovanni Giolitti(ジョヴァンニ・ジョリッティ通り)

テルミニ駅を背にして、駅の左側を通っているのがVia Giovanni Giolitti=ジョヴァンニ・ジョリッティ通りだ。
この通りは、テルミニ駅の脇をずーっと通って、ポルタ・マッジョーレまで続いている。ポルタ・マッジョーレ広場には、トラムの停留所があって、南下する路線と大学街のサン・ロレンツォ方面へと向かう路線が交差していて、僕もよく通ったところだ。

まず、グーグルマップで場所の確認。
http://maps.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=italy+roma&sll=41.87194,12.56738&
sspn=2.830439,4.927368&ie=UTF8&z=17&ll=41.898572,12.501326&spn=0
.005303,0.013561&om=1

この辺の通りの名前の由来について、今回は書いてみようと思う。

Giovannni Giolittiについての日本語版wikipediaの記述は、全然役に立たない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%
B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%82
%B8%E3%83%A7%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3

まあ、明治維新当時の日本の政治家について、イタリア語版に詳しく出てるはずはないので、その逆もしかりだろう。
参考に、イタリア語版wikipediaにあった、明治維新以降の日本の歴代首相の一覧表を載せておく。
http://it.wikipedia.org/wiki/Elenco_dei_Primi_Ministri_del_Giappone
この表の年代と、これから書こうとする、テルミニ駅の北西側の一画にある通りの名前になっている人たちの生きた時代とを比較してみると、少しは理解の助けになるかも知れない。

イタリア語版wikipediaのジョリッティについての記述はここ
http://it.wikipedia.org/wiki/Giovanni_Giolitti
wikipediaではないが、イタリアの歴史上の様々な人物の経歴が掲載されているサイトを見つけたので、そこにある記述も参考にした。
http://www.cronologia.com/storia/biografie/giolitti.htm

では、Giovannni Giolittiから話を始める。
一言でいうと、彼は、イタリア統一後の一時代を築いた政治家だ。

1842年にクーネオで生まれ、1928年にカヴールで亡くなっている。
日本語版のwikipediaには、ボルゲーゼ家出身ってあるけど、これは間違い。原文のborgheseは、確かにボルゲーセ家の意味でも使われるけど、イタリア語版の記述を見ると、una famiglia borgheseってあって、定冠詞ではなくて不定冠詞が付いてるから、ブルジョア(有産)階級の家族=裕福な家族出身って意味だ。

イタリアって国は、昔からあったように思っちゃうんだけど、それは、ローマ帝国がイタリア半島にあったからで、イタリアって国自体は、1861年に出来ている。それまでは、イタリアには、いろんな小国が入り乱れていた。ヴェネツィア共和国とかフィレンツェ公国とか、ナポリ王国とか、ミラノ公国とか、ルネッサンスの時代を考えてみれば、そこには、イタリアって国は存在してなかった事に納得出来るはず。
イタリア半島を一つの国家として統一しようっていうのが、イタリア統一運動=Risorgimento(リソルジメント)と呼ばれた運動だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%AB%E
3%82%B8%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88

つまり、彼が生まれた6年後にイタリア統一戦争が始まり、イタリアが統一された年に、ジョリッティは19歳ってことになる。
大学で法律を勉強した後、公務員になり、その後に政治家へって道を歩んだらしい。1882年(40歳)に政界入りし、1889年クリスピ内閣で、財務大臣を務め、1892年(50歳)で初めて首相となった。でも、ローマナ銀行スキャンダルで辞任に追い込まれた。この事件、政界と財界の癒着事件で、なんか、今も昔も変わってないなぁーって思ってしまった。
http://it.wikipedia.org/wiki/Scandalo_della_Banca_Romana
その後復活して、政界に返り咲くんだけど、1900年から1920年にかけてのイタリアを「ジョリッティのイタリア」と呼んだりするみたいだ。
イタリアが統一されてからしばらく経って、いろんな問題が表面化してきた時代みたいだ。
産業が発展し、社会主義陣営とカトリック勢力が躍進し、アフリカへの侵略が始まり、貧困層のパンを求めての一揆がおこり、そしてムッソリーニが率いるファシスト党が誕生する。まあ、ネガティヴな事ばかりではない。女性参政権はまだまだなかったが、それまでの投票権は裕福な階層だけだったものが、ジョリッティによって、男性ならば誰でも投票出来るようになった(女性参政権が認められたのは、第二次大戦後のことだ)。

テルミニ駅の脇を通っている通りには、そんな彼の名前が付けられている。
では、彼の通りと交差しているのは、どんな人たちなんだろう。

ちょうど、駅の脇から始まるジョリッティ通りと交差するかしないか微妙な位置にあるのが、Via Cavour=カヴール通りだ。
この通りはちょっと長くて、テルミニ駅からコロッセオがあるフォーリ・インペリアリ通りまで続いている。大きな集会とかがあると、共和国広場に集合して、デモの出発を待つ。広場を出発する隊列は、テルミニ駅の脇を通り、カヴール通りを下って、フォーリ・インペリアリ通りに出て、右折してヴェネツィア広場に向かうってのが良くあるデモコースだった。
ジョリッティが亡くなった場所の地名もカヴールなんだけど、この通りの名前の由来は、地名からではなくて、Camillo Benso Conte di Cavourからだろう。
日本語版wikipediaはここ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%AD%E3%83%BB%E
3%82%AB%E3%83%B4%E3%83%BC%E3%83%AB

イタリア語版は
http://it.wikipedia.org/wiki/Camillo_Cavour
彼は、統一されたイタリア王国の初代首相である。
サルディニア王国の王であった、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世がイタリア王国建国を宣言したのが、1861年3月17日で、カヴールは、王に任命されて初代首相となるも6月6日に、マラリアで死去している。ただ、イタリア統一にいたるまで、フランスやイギリスといった列国との交渉に手腕を発揮した。
ちなみに、彼の死因となったマラリアは、かつてマレンマ地区(現在のトスカーナ州の海岸沿いの湿地帯)で蔓延していたそうで、イタリアは、マラリアの研究に関しては、世界トップレベルなんだそうだ。

ジョリッティと次ぎに交差するのはVia Daniele Manin=ダニエーレ・マニン通り。
彼は、イタリア統一を見ずに亡くなった愛国者だそうだ。
日本語版のwikipediaもイタリア語版のwikipediaも記述はほぼ同じだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%8
2%A8%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%B3

その次はVia Gioberti=ジョベルティ通りとVia Carlo Cattaneo=カルロ・カッタネオ通りで、二人はイタリアの哲学者であり、政治家。
Vincenzo Giobertiは、1801年4月5日トリノ生まれ、1852年10月26日パリで死去。サルディニア王国の初代下院議長。哲学者としては、存在学を扱ったらしい。と言われても僕にはよく分からんけど。イタリアの統一は見ずに亡くなっている。

Carlo Cattaneoは、1801年6月15日ミラノ生まれで、1869年2月6日に死去。愛国主義者とイタリア語版のwikipediaにはある。自由主義的連邦制を信じていたそうだ。

二人についてのイタリア語のサイトは
Via Gioberti
http://it.wikipedia.org/wiki/Vincenzo_Gioberti
http://www.cronologia.com/storia/biografie/gioberti.htm

Via Carlo Cattaneo
http://www.cronologia.com/storia/biografie/cattaneo.htm
http://it.wikipedia.org/wiki/Carlo_Cattaneo_%28patriota%29

この地区にある通りの名前は、大体リソルジメントの時代に活躍した人物の名前が付いているみたいだ。
南下するに従って、何となく怪しげな雰囲気の地区になる。まあ、大都市ではどこでも、大きな駅の周辺は猥雑なものだ。
僕がいたのは、かなり大昔だから、現在は分からないけど、夜遅くバスに乗って通りかかると、通りには街娼の姿があったりした。
当初は女性だったみたいだけど、段々と女装の人が増えてきてたみたいだった。

時間があれば、もう少し他の通りも見てみるんだけど、とりあえず今日はこの辺まで。
posted by tady at 16:54| ローマ ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | ローマ散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月30日

ローマ散歩2

Piazza dei cinquecento(五百人広場)

ローマ・テルミニ駅の正面を出るとあるのが、五百人広場である。
ローマ市内各所へと向かうバスターミナルになっていて、ローマ市内の他のPiazza(広場)とはかなり趣が違う。
昔から、ローマに暮らす移民の人たちの出会いの場所となっていたそうで、昔はサルディニアから本土に来ていた人たちの、そして現在は、東南アジア、中でもフィリピン人たちの集合場所となっている。
イタリアでは、特に都市部においては、中流階級より上の人たちは、家政婦さん(お手伝いさん)を雇うことが多い。その多くがフィリピンからの女性たちだ。
現在日本でも、老人介護の現場でフィリピンの人たちの手助けをしてもらおうって話が出てるみたいだけど、なんかなぁーって感じが僕はする。
イタリアとフィリピンの関係で言うと、スペインの支配が長かったフィリピンでは、カトリック教徒が多いってことが背景にあるのかもしれない。その一方で、かなり以前、僕がイタリアに滞在していたときには、フィリピンでは非合法の共産党の人が亡命していたりした。

移民が集まる場所でもあるが、ツグミが集まる場所でもある。夕闇迫る空に、五百人広場の木々をねぐらとするツグミの大群が、変幻自在に形を変えながら飛来する様子は、なかなかの見ものだった。ただ、糞の問題があってローマ市はツグミを追い払おうとしているってドキュメンタリーを、これも随分前に仕事で翻訳したことがあるので、現在はどうなっているか分からない。

五百人広場の名前の由来を調べると、イタリアの近代史に踏み込まなければならない。この五百人というのは、イタリアがアフリカを植民地としていた時に、エリトリアでエチオピア人と戦って、戦死した人の数からきているからだ。
ここ↓のサイトでは、実は500人じゃなくて430人だったと書いてあるけど、、、
http://www.warfare.it/storie/africa_italia.html

イタリアがアフリカに植民地を持つに至った経過については、日本語版のwikipediaにも出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E9%A
0%98%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB

さらに、ネット上には、様々な情報があるもんで、日本語でかなり詳しいイタリアのアフリカ侵略史を載せているサイトがあった。
http://www.kaho.biz/italy.html
ここのウッチャリ条約って項目に、五百人広場の名前の由来となった「ドガリの戦い」についての記載がある。
イタリア語版のwikipediaでも、この戦いについての記載があるが、まだ完全ではないようだ。
http://it.wikipedia.org/wiki/Battaglia_di_Dogali
「ドガリの戦い」とは、1887年1月26日、Tommaso De Cristoforis中佐に率いられた兵士(日本語のサイトでは540人イタリア語版wikipediaでは548人)が、Saati砦に救援に向かう際、エチオピアの非正規軍と衝突して、わずか4時間で殲滅されちゃったそうだ。イタリア語版wikipediaでは、生き残ったのは下士官一人と86人の兵士ってことになってるようで、引き算をすると548-87で、死者は461人ってことになる。
まあ、大ざっぱに言って、500人が戦死ってことで、ローマにあった、ローマ時代のオベリスクをその記念碑にして、テルミニ駅の前の広場に建てたので、五百人広場ってことになっているようだ。この辺のいい加減さは、まあイタリアですからね。記念碑は、1925年にテルミニ駅前から移されて、現在はvia delle terme di Dioclezianoにある。
http://it.wikipedia.org/wiki/Obelischi_di_Roma#Obelisco_di_Dogali

面白いのは、最初に挙げたイタリア語のサイトの管理者もその後の日本語のサイトの管理者も歴史の専門家ではなくて、個人の趣味でイタリアのアフリカ侵略史について勉強して書いているってところ。

僕も以前、素人ながら、イタリアの戦争責任はどうなっているのかってことを調べてみた事がある。パルチザン闘争により、ムッソリーニを追い出して、戦争の途中から連合軍になったイタリアの戦争責任はどのように処理されたのかってことに興味があったからだ。
その中で、知ったのだが、どうやら、ムッソリーニの時代には、植民地における戦闘で、毒ガス兵器を使ったりしたらしい。しかし、現在のイタリアでも、それが本当にあったのかなかったのかは、ちょうど日本における南京虐殺の問題のように、議論が続いている。

いずれにしても、イタリアのアフリカ植民の歴史を勉強すると、なんで現在、リビアのガダフィがイタリアに対して先鋭的な態度を取るのかってことも解ってくる。北の将軍様と日本政府みたいな感じなのだ。そうそう、あと、レゲエが好きな人も、ちょっと勉強すると良いかもしれない。ラスタファリズムの神様であるハイレ・セラシエ皇帝が生きていた時代の話だからだ。

ローマの五百人広場から、話が随分と脱線してしまった。でも、ローマの観光をしながら、こういったことを勉強するのも良いんじゃないかと思うのは、僕だけ?
posted by tady at 14:04| ローマ 🌁| Comment(3) | TrackBack(0) | ローマ散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月06日

ローマ散歩1

Roma Termini

現在では、ローマに行くというと、到着場所は、フュミンチーノ(レオナルド・ダ・ヴィンチ)国際空港ってことになるが、それでは、ローマの中心からあまりにも遠いので、まずは、鉄道での入口、ローマ・テルミニ駅から始めようと思う。
日本のwikipediaにあるテルミニ駅の解説はここ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%
E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%8B%E9%A7%85
ここでは、公共浴場からとったと言う説を否定しているけれど、少なくとも僕が見たイタリアのサイトでは、すべて公共浴場が名前の由来だと考えられるとしていた。日本語のwikipediaがなぜ、「終着」駅説を取るのか、その根拠がちょっと知りたい。

まず、ローマのテルミニ駅がどこにあるのかを確認しておこう。
イタリア語版のwikipediaをみると
http://it.wikipedia.org/wiki/Roma_Termini
Googlemapsにリンクが張ってある。
http://maps.google.com/
maps?ll=41.898015,12.505982&spn=0.012374,0.015880&t=k&hl=en
この駅が位置する場所は、ローマにある7つの丘のひとつ、エスクィリーノの丘である。
7つの丘とは、古代ローマが作られたときの基礎となった丘のことだ。
日本語版wikipediaにも簡単な記述がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83
%9E%E3%81%AE%E4%B8%83%E4%B8%98
ローマを散策するに当たって、この7つの丘は、現代でもとても重要なので、これからたびたび出てくることになるだろう。
今のところ、日本語版wikipediaには、エスクィリーノの丘についての記述はないので、イタリア語版のwikipediaから、引用しておこう。
http://it.wikipedia.org/wiki/Esquilino
ここの記述によると、7つの丘は、元々(おーむかし)は繋がっていて、高台を形成していたのだが、水の浸食により7つの丘になったとある。その中でもエスクィリーノの丘は一番高い丘で、南部のOppioの高台と東部のFagutalの高台北部のCispioの高台によって構成されている。地質学的には、凝灰岩でできており、後のこの加工しやすい凝灰岩を使って、町が作られたとある。

地政学的な視点からではなく、行政区分という視点から見ると、この地区は、アウグストゥスの時代までは、ローマの周辺地区であり、エスクィリーノという名前も、ラテン語で周辺部を意味するesquiliaeあるいは外側に住む者を意味するesquilinusから来ているという。内側に住む者を意味するラテン語はinquilinusだそうだ。

アウグストゥスの都市改革以前は、町のゴミ捨て場であり、また墓場だったそうだ。
アウグストゥスについては、ここ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%
B0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9
アウグストゥスの改革により、この地域は整備されて、その後緑豊かなvillaが建設された。

話が少し脱線するが、現在のローマも、rioneという昔ながら行政区分とquartiereと呼ばれる近年になってからの行政区分を併用している。rioneは、アウレリアヌスの城壁の内側の行政区分で、quartiereは、その後発展してきた城壁の外の行政区分というくくりが出来る。

さて、テルミニ駅が最初に建設されたのは、1865年にローマ法王庁が望んだ為で、それまであったvillaを壊して、建築家Salvatore Bianchiの手によって、1867年に最初の駅が作られた。当時は木造だったそうだ。
当時の駅の写真が、下のサイトの一番最後の写真である。
http://www.scudit.net/mdstazionetermini.htm
そして、この駅が、Terme di Diocleziano=ディオクレツィアーノの浴場から近かったため、テルミニ駅と名付けられたという。
この浴場がどれくらい大きかったかというと、380メートル×365メートル、総面積14ヘクタール、浴槽の数は2400あったというから、そこらの日本の健康ランドなんか足下にも及ばない規模だ。それが作られたのは306年、今から1700年も前なんだから、びっくりである。
http://it.wikipedia.org/wiki/Terme_di_Diocleziano

次ぎにテルミニ駅が大きく変わったのは、1939年に、Angiolo Mazzoniの新しい駅の計画が採用された時だ。時はまさにムッソリーニのファシズムの時代で、1939年は、ムッソリーニとヒットラーが手を結んだ年でもある。
そんなわけで、テルミニ駅はファシズム様式であると言われることもあるようだが、正確には、そうではない。Angiolo Mazzoniの計画は、1943年に中断されてしまったからだ。戦後になって当のAngiolo Mazzoniは、ファシストであるとの事で解任されてしまい、Montuori と Vitellozzi という二人の建築家が後を引き継いで、1951年に完成している。
イタリアの国鉄も民営化され、大きな駅はgrandistazioniという民間会社が運営するようになった。以前は、このサイトにも、テルミニ駅についての詳細があったんだけど、今見たら、消えていた。
http://www.grandistazioni.it/client/
いずれにしても、このローマ・テルミニは、ヨーロッパ最大の駅で、駅前広場からにはバスターミナルがあり、ローマ市内各所へ行く事が出来る。
というわけで、次回は、駅前広場について書こうと思う。
posted by tady at 15:55| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月04日

ローマ散歩0

まずは、ご挨拶
ヨーロッパの町は、通りに名前が付いている。そして住所は、その通りの何番地って感じで決められている。広場に面したところには、広場の何番地ということになっている。通りや広場の名前は、それぞれきちんと意味がある。
例えば、日本の場合、「銀座通り」は銀座を通っている通りだからだけど、その起源を遡れば、江戸時代の銀座・金座・銭座から来ている訳で、通りの名前を知る事は、その国の歴史を知る事にも繋がると考える。
参考http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1589315

で、以前から、日本人にもなじみ深く、かつて2年余り住んだ事のあるローマを、その通りや広場の名前の由来を辿りながら、紹介してみたいと思っていた。
思い立った頃は、ブログなんて便利なものはなく、地道にホームページを作るしかなかったため、構想を抱いたものの、挫折していた。
wikipediaやGoogle mapsなど、ネット環境も随分と進化している事もあり、あちこちにリンクを貼りながら、ブログという形で、改めて「ローマ散歩」の連載を始めようかと思っている。僕も勉強しながらの連載となるので、まあ、気長にお付き合い下さい。
次回第1回は、ローマ・テルミニから始めます。
posted by tady at 22:19| ローマ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ散歩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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