2011年05月19日

イタリア映画祭2011 その14 まとめ

ようやく、今年のイタリア映画祭で見た11本の映画の感想を書き終わった。

一番印象に残っているのは、「われわれは信じていた」だ。リソルジメント前後の歴史をもう一度勉強し直してから、再度見てみたい作品である。

「星の子どもたち」も良かった。現在の政治の状況に対する欲求不満を、コメディと言う形で表現していて、現実はなかなか変わらないけれど、見終わって、ちょっと気持ちが明るくなる映画だった。

一方「ロバの美」と「もう一度キスを」は、イタリアの50代、40代の人間関係を描いていて、社会というよりも、個々人の置かれている状況みたいなものを垣間見ることができた気がする。

そういう意味では「ぼくたちの生活」も、現代イタリアの様子が分かる作品であった。

「アルデンテな男たち」は、同性愛と言う問題を中心に置いて描いているってのは、イタリア映画として、新しいかな?

「キスを叶えて」は、実験的映画の趣きが強く、そこそこ面白かったけど、引き込まれるような面白さではなかった。

「穏やかな暮らし」と「初任地にて」は、今まで見たことがあるような内容で、いまいちだった。

「ラ・パッショーネ」は、劇中劇ってことで、前回のイタリア映画祭で上映された「それもこれもユダのせい」に似ている感じがあって、二番煎じかな。

「はじめての大切なもの」は、ステファニア・サンドレッリの演技だけで、満足。

後、今回の映画の多くで、音楽が重要な役割を果たしているって気がした。「星の子どもたち」も「はじめての大切なもの」も、かつてのヒット曲から取られているし、「ぼくたちの生活」の中のヴァスコ・ロッシの歌も重要な役割を果たしていた。
ジョヴァノッティの音楽も使われていたのだけど、どの作品だったか思い出せない。

映画祭のプログラムには、監督へのインタビューや俳優の経歴などが掲載されているし、それぞれの映画のキャストなど大まかな内容はでているのだが、使われた音楽とかは、詳しく出ていないので、その辺も充実してもらえると嬉しいなぁ。

ということで、今年のイタリア映画祭の報告はこれにて終了。
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イタリア映画祭2011 その13「初任地にて」

原題「Il primo incarico」。監督Giorgia Cecere。イタリア映画祭には、初登場の監督だ。ストーリーは、1950年代の南イタリアが舞台で、新任教師として、寒村に赴任する女性ネーナが主人公である。
第2時世界大戦が終わり、君主国家から共和国に変わったイタリアだが、貧富の差は未だ歴然と残っている時代の話だ。
中流家庭出身の主人公ネーナには、裕福な一族出身の恋人がいた。しかし、彼女は、自らの生き方を貫くために、教師となり、一人寒村の小さな小学校へと赴任する。
そこで待っていたのは、よそ者をなかなか受け入れてくれない村人であり、言うことを聞かない子供たちだった。
それでも、恋人からの手紙を励みに、苦手な料理を覚えつつ、日々の生活を送っていくのだが、ある日、その恋人から、別の女性に惹かれているという手紙が届く。
落胆し、自暴自棄になった彼女は、飲めない酒を飲み、酔った勢いで、村の若者の家に押しかけて一夜を過ごしてしまう。
誰にも見られていないと思っていたのだが、目撃した村人の口から、その話が広まってしまう。女性に対する貞操観念の強く残る南部の田舎においては、結婚するしかなくなってしまう。

学歴もなく、村の土木作業を行っている若者と結婚をしたものの、打ち解けることはなく、暗澹たる思いのままに、日々が続いてく。
そんな中、実家に里帰りした折に、かつての恋人と出会う。カトリックでは、離婚はありえないので、結婚そのものを無効にすることで、不本意に押し付けられた結婚を解消し、自分の元に戻ってくるようにと元恋人は言うのだが、彼女は、再び村に帰る道を選ぶ。

教育水準の低い村に、インテリの教師が入って、、、という話は、これまでも何度か見たような気がする。そんなわけで、あまり新鮮味はない映画だった。

後半の、主人公とその夫との関係が、徐々に親密になっていくあたりは、ちょっといい感じだったのだが、もう少しうまく描いてくれればなぁーってのが感想。
それと、主人公の上から目線で描かれているのが、ちょっと気になった。
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2011年05月16日

イタリア映画祭2011 その12「はじめての大切なもの」

原題「La prima cosa bella」。監督はPaolo Virzi。彼もまた、イタリア映画祭の常連監督と言っていい。主演は、Valerio Mastandrea。自信の持てない中年男を熱演している。しかし、なんといっても、この映画の見どころは、主人公の母親を演じたステファニア・サンドレッリだろう。

ミラノで、国語教師(イタリア語の教師)をしている主人公のブルーノは、自分に自信が持てず、生徒から麻薬を譲ってもらって公園でボーっとするのが、唯一の息抜きというような、怠惰な生活を送っている。しかし、何故か、同居している活動的な女性は、そんな主人公に魅力を感じている。だが、踏ん切りがつかない主人公は、結婚まで至っていない。
そんな中、妹から、母親が末期癌で入院しており、もう先は長くないと知らされ、故郷のリヴォルノへ見舞いに行くことになる。
彼が人生に対して、消極的なその原因は、あまりの自由奔放天真爛漫だった母親にあった。

1971年の夏に、リヴォルノの海水浴場で行われたミスコンの余興として行われた、魅力的なミセスコンテストで、優勝した母親は、お堅い夫から、浮気するのではないかとあらぬ嫉妬を受けて、別居してしまう。彼女は、当時幼かった主人公と彼の妹を養うために、女の魅力を武器に仕事を得るのだが、それはまさに男を渡り歩くような生活。
高校を卒業すると同時に、そんな母親から逃れたくて、主人公は故郷を捨てる。

末期癌の母親は、年老いてなお、自由奔放で、見舞いに来た息子と病院を抜け出して、夜の町に遊びに出てしまう。
そんな母親を見ながら、過去の記憶をたどり、自分の人生を見つめ直す主人公。

死が迫る中、母親は、ずっと世話になっており、彼女を崇拝していた家の管理人の男性と結婚を決意し、ベッド上で結婚式をあげる。結婚式に招待する人の中には、子どもの出来なかった地元名士の夫婦に頼まれて、その夫婦の子として、彼女が産んだ弟もいた。
母親は結婚式直後に他界してしまう。

タイトルの「La prima cosa bella」は1970年にヒットした歌から取られており、劇中で何度も流れる。

1971年から現在まで、行ったり来たりするので、話の筋を追うのが大変かも知れない。
自由奔放に生き、最後に皆に看取られながら死ぬというのは、なんと幸せなことなんだろうと、思ってしまった。
母は強しって映画だが、老いてなお美しいステファニア・サンドレッリがとってもよかった。
イタリアのマンマはやっぱり偉大だ。
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2011年05月14日

イタリア映画祭2011 その11「穏やかな暮らし」

原題「Una vita tranquilla」。監督はClaudio Cupellini。主演は、いつも渋い演技を見せるToni Servilloだ。

映画は、如何にもイタリア南部出身の悪そうな若者二人組みが泊まるホテルで起きたガス爆発から始まる。
なんらかのヤバそうな計画を企てていた二人組みは、この爆発事故により予定が狂い、ドイツに住んでいるイタリア人の元に身を寄せる。
彼は、ドイツ人と結婚し、男の子が一人おり、地元で結構栄えているレストランを経営している。その彼の穏やかな暮らしに現れた若者たち。
平穏な暮らしに過去の暗い影が忍び寄ってくる。
かつてイタリアの犯罪組織に属していた彼は、イタリア離れ、偽名を使うことで、過去を消し去ってきたはずだった。ところが、、、、

っていうのが、大体のお話。なんとなくどこかで見たようなプロットで、ハラハラドキドキの盛り上がるサスペンスって感じでもなく、淡々と話が進んでいく。Servilloの演技は、いいのだけれど、映画としてはいまひとつだった。

ただ、以前読んだイタリアの新聞記事などによると、マフィアやカモッラといった犯罪組織は、イタリアのレストランの50%をコントロールしてるそうで、現実にありえそうな話ではある。サッカー選手の獲得競争などで、巨額の金が動くところには、やはりマフィアが関わっているとも言われていて、日本選手なんかもカモにされる可能性があるなんて話しも、以前耳にしたことがある。ナポリに行ったマラドーナが、麻薬漬けにされちゃったのは有名な話だけど、、、、

ナポリの犯罪組織カモッラを描いた小説、Gomorraを読んでしまうと、この程度の話では驚かなくなってしまう。「死都ゴモラ」の邦題で、翻訳もされている。一方映画化された作品は、東京国際映画祭とイタリア映画祭で2回上映されているが、いよいよ今年の秋から一般公開になるらしい。
そういった予備知識を持って、この作品を見ると、忍び寄る影の怖さが一層増すかもしれない。
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2011年05月11日

イタリア映画祭2011 その10 「もう一度キスをして」

ようやく、映画祭最終日5月4日に見た映画にたどり着いた。3日間で11本の映画を見るってのは、かなーり疲れるけど、その感想をブログに書くのも、なかなか大変w原題「Baciamiancora」。監督はGabriele Muccino。ハリウッドに進出して、「幸せのちから」なんて映画も撮っている。
今回の作品は、2001年の発表された「最後のキス(L'ultimo bacio)」の10年後を描いた続編ってことらしい。残念ながら前作は見ていない。
主人公のカルロは、結婚9年目で、妻のジュリアとは離婚調停中で別居しているが、離婚前だけどそれぞれ別のパートナーと暮らしている。別れ話の原因は、如何にもラテン男って感じのカルロによる数々の浮気だった。一人娘は、その両親の家の間を行ったり来たり。離婚の多いイタリアでは、当たり前の風景だが、日本だとかなり奇異に感じるかもしれない。
カルロには、幼友達がいて、結婚後も夫婦同士での付き合いが続いている。
そんなある日、生まれたばかりの子どもと妻を置いて、10年間失踪していた友人アドリアーノがイタリアに戻ってくる。旧友たちは、連絡を取り合い再会するのだが、皆、問題を抱えている。
カルロとジュリアは離婚調停中。マルコとヴェロニカは、子どもが出来ず、妻のヴェロニカはノイローゼぎみ。アドリアーノの別れた妻リヴィアは、元夫の友人であるパオロと付き合っているが、パオロはうつ病に悩んでおり、精神状態が常に不安定。未だ未婚のアルベルトは、若いころの夢が捨てられず、ブラジルへの移住を考えている。

先に紹介した映画「ロバの美」が、50歳代のイタリア人たちを描いているとすれば、この映画は、40歳代のイタリア人たちを描いている。
好きなのに嫌い、嫌いなのに好きっていう、難しい男女の感情が、様々な設定で描かれていて、どこか身につまされたり、思わず頷いてしまうような場面のある。
ラストシーンでは、50代、60代、70代になったときに、どんな風になっているだろうというような台詞がでてくるのだが、もしかしたら、10年後に、この続編が撮られるのかもしれない。

「ロバの美」と合わせて見ると面白いかも知れない。大人になれない大人たちの映画である。
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2011年05月09日

イタリア映画祭2011 その9「われわれは信じていた」

原題「Noi credevamo」。監督はMario Martone。この映画は、今年がイタリア統一150周年にあたるため、それを記念して作成されたものらしい。内容は、イタリア統一前夜から統一直後までを描いたもので、イタリアの当時の歴史を知っていないと、訳がわからないかもしれない。
ある意味、1976年のベルトルッチ監督が撮った316分の大作映画「1900年」、2005年にマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ監督が撮ったこれも366分の大作映画「輝ける青春」の系譜につらなる映画と言っていいだろう。長さは170分。
「1900年」が、イタリア統一後の1900年代初頭から第二次世界大戦終了までを描き、「輝ける青春」が、1960年代から2000年ごろまでを描いていたのに対し、この作品はそれ以前の1828年から、イタリア統一がなった1861年の後の1862年までを描いている。

イタリア統一のために、共和制を目指した人々や、君主制を求めた人々など、様々な運動があったことがよくわかる。同時にまた、当時のイタリア(統一前なので、国家としてのイタリアは存在していないが、イタリア半島に統一した国家をつくろうとしていた)における、南北の問題、貴族や農園主と小作農や貧しい人々の関係も、つぶさに描かれている。ショッキングな処刑場面なども出てくるのだが、いわゆる紙に書かれた歴史書では、わからない当時の状況が、映像化されることにより、具体的に理解できる。

年代が1828年から1862年と幅があるので、主人公を演じる役者も途中で変わるのだが、後半の主人公を演じたルイジ・ロ・カーショは、渋い演技を見せていた。

タイトルの意味は、ラストシーンで、主人公が語る言葉となっている。「われわれは信じていた」と過去形なのは、イタリア統一を信じて、戦ってきたのに、出来上がった統一国家は、信じていたものとは違っていたという意味でもあり、統一のために途中で死んで行った仲間たちを含めて「われわれ」であるってことなのだ。

3時間弱の映画だったが、その長さをまったく感じさせない、密度の高い作品であった。

イタリア統一前後の思想家たちや活動家たちのことを知っていないと理解が難しい映画なので、日本で公開されることは、あまり期待できないが、例えば、同じ時期の幕末から明治維新にかけての、坂本龍馬や新選組、勝海舟やら西郷隆盛の時代を描いた映画が、外国人に理解されるかというと、それはかなり難しいのと同じだろう。

DVDとして発売されたら、イタリアの歴史を勉強するつもりで、何度か見ているといいかもしれない。日本語の解説冊子でもつけてくれると嬉しいけど、、、、、
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イタリア映画祭2011 その8「僕たちの生活」

原題「La nostra vita」。監督は、Daniele Luchettiだ。主演しているのはElio Germano。彼の出演した「Nー私とナポレオン」や「犯罪小説」は見ている。なんか線が細い感じだったのだけれど、今回の作品では、いい感じに逞しくなっていた。

ストーリーは、二人の子どもを持ち、3人目の出産を控えた妻と実に仲睦まじい生活を送っている主人公クラウディオは、ビルの建築現場で働く、現場監督であった。
ある日、偶然にも、建設現場のエレベーターシャフトの下で死体を発見してしまう。しかし、それを警察に届け出れば、サ行がストップし、納期に間に合わなくなってしまう。良心の呵責を感じながらも、見て見ぬふりをしてしまう。
一方、急に産気づき、妻を車で病院に運び、第3子の誕生を待っている彼にもたらされたのは、子どもの誕生とともに、妻が亡くなったという知らせだった。
3人の子どもを抱え、一人取り残される主人公。悩んだ挙句、決心したのは、発見した死体の話をネタに、元請けを強請り、下請けさ行を発注させ、金を稼ぐことで、心の空白を埋めようということだった。
下請け作業を請け負っても、元手の金が必要となる。主人公は、その金を近所に住む麻薬の売人をしている友人から借りる。
作業は思うように進まず、働いているのは、不法滞在をしている外国人労働者ばかり。そこに、貸した金をすぐ返してくれないと殺されるという電話が、麻薬の売人から入る。
労働者たちへの支払いを、返済に回すのだが、ついに資金繰りが出来なくなり、労働者たちは現場を放棄してしまう。
そんな時に手を差し伸べてくれたのが、兄弟たちであった。

現代イタリアの低所得者層の人々の、ありうべき日常を描いているといってもいい映画なのんだろう。ビルの建設における手抜き作業。不法滞在している高学歴な外国人現場労働者。真面目過ぎる故に50になっても結婚できないでいる主人公の兄。などなど

印象に残ったのは、第3子の名前をヴァスコと付けるのだが、これはイタリアの有名なロック歌手ヴァスコ・ロッシから取られていて、映画の中の、妻の葬儀のシーンでは、彼の歌「anima fragile」を、主人公が泣きながら絶唱する場面がある。
映画の内容、そのままの歌で、改めて聴き直してみたいと思った。
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2011年05月07日

イタリア映画祭2011 その7「キスを叶えて」

原題は「I baci mai dati」。直訳すると「与えられなかったキス」となる。監督はRoberta Torre。
ストーリーは、イタリア南部の都市近郊に住んでいる中学生の女の子が主人公。団地の広場に建てられたマドンナ(聖母マリア)像の除幕式から映画は始まる。広場でサッカーをして遊ぶ若者たちのボールが、像の頭部にあたり、壊れてしまう。若者たちは、落下した頭部を近くの家の物置に隠してしまい、その行方を神父たちが探すのだが、一部始終を窓から見ていた少女は、夢のお告げがあったと、隠し場所を神父に伝える。
マドンナの夢のお告げ=奇跡であるとして、少女は一躍町の有名人となり、神の救いを求める人々が彼女の元に殺到する。
母親はそれを利用して、金儲けに走り。擦り寄ってきた地方議員と懇ろの関係にもなってしまう。
一方、主人公は、渦中の真っ只中にありながら、大人たちの騒動を冷静に見つめている。
そんな彼女の元に、盲目の少女が一人やってくる。ある精神的ショックから、目が見えなくなってしまったのだ。
主人公は、大人に踊らされていると皮肉を込めて言う盲目の少女も、主人公が決してそうではないことを理解し、やがて心を開いていく。そして、、、、

映像は、端々にフェリーニの影響が見られる。主人公がアルバイトするヘアサロンなんか、実にフェリーニっぽい。
また、うるさい大人たちから、身を守るために、主人公は常にヘッドフォンをして音楽を聞いていたりするのも、面白かった。
タイトルの意味は、母親の愛情を求めつつも、それに気づいてくれない傷つきやすい思春期の少女と、自分の過ちに気がつき、娘を抱擁する母親の関係を表したもの。

ちょっと疲れる映画だったけど、神に救いを求める人々の模様が、描かれていて、これも現代イタリアの一側面なんだろうなぁーってことがわかって、改めて今のイタリアの有り様を考えてしまった。政治状況も含めてね。
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2011年05月06日

イタリア映画祭2011 その6

4月30日に4本映画を見た後、次に出かけたのは5月3日だった。最初の1本は、既に見ていたので、2本目から観に行った。
この日見たのは、
「キスを叶えて」 原題「I baci mai dati」
「僕たちの生活」 原題「La nostra vita」
「われわれは信じていた」 原題「Noi credevamo」
の3本。
この日の作品は、3本とも、かなり充実していて、見応えがあった。中でも、3時間弱という長い映画にも関わらず、引き込まれるように見てしまったのが、「われわれは信じていた」だった。
詳しい内容については、一つずつ、紹介していく。

1日に3本から4本の映画を見るのは、かなりしんどいけれど、集中して見れば、その時間だけで終わるのだけれど、ブログの記事にしようと思うと、思い出しながら、時間を見つけて記事にしていくことになるので、ちょっと時間がかかる。
記憶が薄れないうちになるべく早く、アップしていくので、お待ちください。
posted by tady at 01:26| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月04日

イタリア映画祭2011 その5「アルデンテな男たち」

原題は「Mine vagante」。邦題も仮題となっているが、既に日本公開が決まっているらしく、一般公開時には、別のタイトルになるようだ。原題の意味は、浮遊機雷である。その意味は、劇中で明らかになっている。監督はイタリア映画祭の常連といってもいい、トルコ出身のFerzan Ozpetekだ。

南イタリアのレッチェから、ローマの大学に出てきた主人公のトマーゾ(演じているのは、若手二枚目俳優として人気の高いScamarcio)は、親に3つの隠し事があった。一つ目は、親の経営するパスタ工場を継ぐべく、経営学を勉強するためにローマに出てきたのだが、文学部に入ってしまったこと。二つ目は、親の後を継ぐ気はなく、作家になりたいと思っていること。そして三つ目が、ゲイであり、同棲している彼氏がいることだった。

夏に実家に帰省したおり、これらの隠し事を親に告白する決心をしていたのだが、一族が集まり、晩餐が行われている中、彼が意を決して告白しようとすると、兄であるアントニオが、先に、自分はゲイであることを告白してしまう。
保守的な南部で、それも大きなパスタ工場を経営する地元の名士でもある父親は、それを聞いて卒倒してしまう。
男は、妻を娶り、愛人を囲うのが当たり前だと思っている、男尊女卑思想の持ち主である父親は、即座にアントニオを勘当する。しかし、その後も、アントニオがゲイであることが世間に知れ渡ると、自らが大恥をかくことになると、ノイローゼにもなってしまう。

弟であるトマーゾは、自分までもがゲイであることを父親が知れば、ショックのあまり死んでしまうだろうと、告白を思いとどまり、兄の代わりに、倒れた父の後を継ぎ、会社の経営に携わることになる。
おりしも、会社では、他の会社との合併が進んでおり、共同パートナーとなった一族の娘アルバと、一緒に会社の運営を任されることになる。
実は、彼女も心に傷を抱えており、彼氏ができない。ゲイのトマーゾとの奇妙な友情関係が育まれていく。

そんな彼らの様子を、暖かい目で見守っているのが、祖母であった。彼女には、愛していた人から引き離され、その人の兄と結婚させられたという過去あり、年老いてなお、自らの若かりしころの決断に納得できずにいた。それゆえなのか、祖母は、エキセントリックなところがあり、回りからいつ足元に来て、爆発するかわからない浮遊機雷と呼ばれていたのだ。

孫たちの気持ちを一番理解していた祖母は、糖尿病を患っており、遺書を残して、大量のケーキを食べて自殺してしまう。
最後には、祖母の死により、ゲイの息子達を受け入れる決心をする両親であった。

未だに男尊女卑思想の残る南部の大家族の様子が面白おかしく描かれており、かなり笑える。
また、仲良く寄り添うトマーゾと恋人のマルコを優しく見つめるアルバが印象的だった。
イタリア若手俳優の中でも、セックスシンボルと言われ、「恋愛マニュアル2(邦題は、「モニカ・ベルッチの恋愛マニュアル」)では、ベルッチと濡れ場を演じていたりするScamarcioが、ゲイを演じているのも面白い。

いずれ日本でも一般公開されるようなので、機会があったら、見てみてください。かなりネタバレになってるけど、、、
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イタリア映画祭2011 その4「ロバの美」

原題は「La bellezza del somaro」。監督は、俳優でもあるSergio Castellittoだ。2007年のイタリア映画祭で上映された、Gianni Amelio監督作品「星なき夜に」で、中国を旅するイタリア人技師を演じた彼が印象に残っている。今回の作品では、監督と主演を努めている。

Castellittoが演じる主人公マルチェッロは建築家で、妻は心理セラピスト。10代の一人娘ローザがいる。50歳を迎えた彼は、職場に愛人がいるものの、物分かりのよい進歩的な父親を自認している。そして妻であるマリーナも、カウンセリングに来る患者を大切に思う医者であり、娘を理解している母親であると思っている。
同年代の友人の息子と娘が付き合い、寝ていることを薄々分かっていても、鷹揚に理解を示しているのだが、、、、
秋のバカンスに、トスカーナにあるマルチェロ夫妻の別荘に、友人達を招き、泊まり込みのパーティーを催すことになる。マリーナは、患者を放って置けないとカウンセリングをしている患者まで招待する。二組の友人夫妻とその子どもたち、マリーナの母親などが集まる中、娘のローザを訪ねて、彼氏がやってくるのだが、なんとそれは70歳を越えたおじいさんアルマンドであった。
当初、友人の息子と別れたという娘が、同級生の黒人(彼もイタリア人の養子という設定になっている)と付き合い始めたのではないかと気を揉んでいたマルチェロとマリーナだったが、人種差別はよくないという思いから、受け入れようと思っていたのだが、登場した娘の彼氏を見て仰天してしまう。
本音と建前の間で揺れ動く両親を、厳しく批判する娘。一方で、彼の方は、淡々と落ち着いた態度で人々と接し、豊かな人生経験とその人柄で、回りの人をたちまち虜にしてしまう。
動揺する人間達を、静に見つめるように、ロバのシーンがあちこちに挿入される。

体面を取り繕い、本音を隠して建前を演じようとする大人と、悩みながら成長していく子どもたち。それら全ての人々と対等に接するアルマンドと遠くから事の成り行きを見守るロバ。

50代のイタリアの大人たちの有り様と、そんな親たちに育てられ、乗り越えていく子どもたちの現在を笑いを交えて、実にうまく描いている映画だった。

今から15年ほど前に、僕がイタリアにホームステイしていたときの家族を再訪し、そこの娘さんと彼女の友人たちと話したことがあった。当時、彼らはまだ、10代後半だったのだが、既にイタリアの離婚率は高くて、10代の子どもたちの親の多くが離婚していたり、その後、恋人ができたりで、実に複雑な家庭環境にいる子たちが多かったことを思い出す。そんな彼らももう30代のはず。
そう思うと、この映画で描かれている家族関係っていうのは、まったくの映画的フィクションではなく、かなり現実に近いものなのではないかと感じた。
子どもたちが、親たちを非難するシーンは、まさにその通りと、手を叩きたくなるほどだった。
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2011年05月03日

イタリア映画祭2011 その3「ラ・パッショーネ」

原題もそのまま「La Passione」なのだが、いわゆる情熱という意味ではなく、定冠詞がついているし、これは「キリストの受難」って意味になる。監督はCarlo Mazzacurati。イタリア映画祭の常連監督と言ってもいいかもしれない。主演はSilvio Orlando。イタリア映画には欠かせない名優と言っていいだろう。重要な脇役には、「星の子どもたち」で、左翼かぶれの男を演じていたGuiseppe Battistonがいる。
売れない監督として、5年も新作を出していない主人公(なぜか名字はイタリア人ではなくDuboisで、これがまた重要な意味を持っていたりする)は、プロダクションから、新作のプロットを早く出すようにせっつかれている。ところが、彼が所有する貸家で水漏れがあり、下の階にある歴史的な壁画にダメージを与えてしまう。原因は、彼が管理を怠ったために、水道管が腐食していたからだ。
その家があるトスカーナの田舎町の市長(ステファニア・サンドレッリが演じているが、年をとっても美しい)は、かつてその町に住んでいた伯爵が行っていた聖なる金曜日の「キリストの受難」劇を演出してくれれば、文化財省への告発は行わないという条件を出す。
売れない監督は、致し方なく、その条件を受け入れざるを得ないくなるのだが、その一方で、新しい作品に、テレビドラマで売れっ子の女優の出演が決まり、新作の製作を早急に進めなくてはならない状況に陥る。

そんな中、彼の代理として助監督を任されるのが、元窃盗犯で、刑務所で監督の講演を聞き、演劇の世界に目覚めたバティストン演じるラミーロだ。
左翼知識人を自認する監督は、キリストの受難劇などやりたくはなく、自分の新作の構想を練るのに忙しい。もっともその一方で、その町のバール(日本語的にいうとカフェ)にいるポーランドの娘が気になって仕方がない。

受難劇の実現に向けて奔走するラミーロ。長ゼリフは素人では覚えられないと、地元のローカルテレビ局で人気のある天気予報に出ている俳優に出演を依頼する。この男を演じるCorrado Guzzantiは、実に怪演。

本番当日、一生懸命演じる素人役者たちに触発され、さらに、主演を依頼した天気予報の俳優が、ちょっとした事故で出られなくなり、代役として登場したラミーロのひたむきさに、監督は熱の入った演出を始める。

最後の晩餐のシーンで、太り過ぎのキリストを演じるラミーロが座る椅子が壊れ、観客が笑い出すと、兵士の役をやっている若者が、真剣に演じる役者たちを代弁して、笑うなと訴えるのだが、そこがまた良い。ラミーロは、こんな太ったキリストはいないとメゲるのだが、監督は、もし現代にキリストがいたら、きっと太っているに違いないと慰める。ここも皮肉が効いていて笑えた。

映画監督が、映画をどう作るか悩むって内容の映画は、今までも数多くある。ナンニ・モレッティにもあるし、ウッディ・アレンにもあるので、パターンではある。また、左翼知識人がキリストについて論じるってのパターンだったりする。
そういう意味では、あまり新鮮さはなかったけれど、「星の子どもたち」のバティストンとこの作品の彼を見ることができて、その辺はとっても面白かった。
まあ、映画としては、そこそこだったけれど、、、、
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イタリア映画祭2011 その2「星の子どもたち」

原題は「Figli delle stelle]」。監督はLucio Pellegrini。邦題は直訳だ。タイトルは、1978年にヒットしたAlan Sorrentiの曲から取られているという。この映画を紹介しているこんなブログもあった。
http://kspacey.exblog.jp/14556699/
監督は1965年生まれだそうで、この曲がヒットしたころは、13歳ってことになる。
あらすじは上述のブログにも書いてあるが、出だしでまず、気を引かれたのは、Morte biancaって話。直訳すると「白い死」ってことになるんだけど、いわゆる銃撃戦などで、血を流す死とは違って、労災による死のことを指す。イタリアでは、労災による死者が多く、社会問題となっているのだが、この作品の背景には、そういった事実がある。
ある意味、とても重い社会問題を扱っているのだが、この作品自体は、コメディと言っていい。
港湾労働者が、クレーンから落ちて死亡したことに端を発して、テレビの政治バラエティ番組がそれを取り上げるが、そこに出席していた担当大臣が、如何にもイタリアの政治家って感じで、厚顔無恥に詭弁を使い、問題の本質をごまかしてしまう。
それに怒りを感じた労働者の仲間と、教師の職を失ってアルバイトで食いつないでいる反体制の男、そして何の罪で服役していたのかは明らかではないのだが、釈放されたばかりの男の3人が、その政治家を誘拐することを決意する。
湯気が立ちこめる公衆浴場で、その政治家を誘拐しようとするのだが、覆面をして良く見えないままに誘拐したのは、まったくの別人。
当初、誘拐の目的は、その厚顔無恥な政治家を懲らしめようという正義感からだったのだが、別人を誘拐してしまったことから、迷走を始める。
面白かったのは、元教師が、誘拐を行った後、自宅に帰ると、そこには警官がおり、犯行がバレたのかと驚くのだが、実は連絡のつかない息子を心配して、捜索願を出した母親のところに来ていたのだった。その時の元教師のセリフが「僕はもう38にもなるんだから、自分のことは自分でできる。心配なんかしないでくれ」っていうのが、とても笑えた。その一方で、息子の方は、ガンを患っている母親をとても心配しているんだけどね。この母親の癌ってのも、物語で重要な意味を持ってくるのだが、、、、
誘拐した人質の隠れ家として、家を提供していたのが、元教師の従兄弟にあたる人物で、いかにも現実にいそうな、左翼かぶれの革命を未だに信じている男なのだ。結婚している妻は、カトリックの信者だったりして、夢としての革命を追い求めているような、ある意味現実を見ていない男なんだけどね。
ローマにあった隠れ家がヤバくなり、移動した先は、例のテレビ番組の女性スタッフが所有するイタリア北部のスキーリゾートにあるマンション形式の別荘。そこには、昔懐かしいレコードがあり、そこで流れるのがタイトルともなった1978年のヒット曲だ。
誘拐がバレないように密かにことを運ぼうとするのだが、村人の知るところとなってしまう。さあ大変って話になるはずが、村人達もイタリア政府の政策に不満を持っており、みんなそろって仲間にして欲しいと言い出す。目当ては身代金。
この辺もイタリア人気質が出ていて面白かった。ほんとか嘘か定かではないが、僕が以前聞いた話では、第二次世界大戦中、ナポリに侵攻してきたドイツ軍の戦車が、盗まれて、行方が分からなくなったことがあって、実は、住民たちが一晩のうちに戦車を分解して、それぞれのパーツを家に持ち帰り、戦車を隠してしまったってエピソードがあるそうだ。

現実の政治に不満を抱きつつも、民主主義のシステムではそれを解決し得ないと分かってしまったときに、法律を犯してでも、夢のような解決方法を夢見てしまう、大人になりきれない大人っていうのを描いている映画だと思った。誘拐という犯罪を描きながらも、そこにユーモアとペーソスがあるのは、イタリアの歴史の中で、例えばモロ首相誘拐暗殺事件やマフィアなどの犯罪組織による誘拐事件など、本当に悲惨な現実を知っているからこそかもしれない。
厳しい状況の中でも、社会正義の実現と皆が幸せに暮らせる社会という夢を忘れてはいけないよってメッセージを感じたのだが、、、、

日本で一般受けする映画かというと、それはちょっと難しいかも、、、でも、面白い映画だった。
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2011年04月30日

イタリア映画祭2011 その1

今年は、4月30日、5月3日、4日と休みを取って、合計11本の映画を見ようと前売券を購入した。前売りが開始されたのが、震災のすぐ後で、福島第一原発事故がどのように進行していくのか不明だったので、場合によっては、東京まで放射能汚染が及んで、行けなくなるかもしれないなぁーと思いつつ、購入した。
原発事故はまだ収束はしていないものの、東京までは、深刻な汚染が及んでおらず、今日、映画祭に行ってきた。
昨日から始まった今年のイタリア映画祭だが、やはり原発事故の影響で、毎年来日していたイタリア人俳優や監督などのゲストは一人も来なかった。
今日見たのは、
「星の子どもたち」原題 Figli delle stelle
「ラ・パッショーネ」原題 La passione
「ロバの美」原題 La bellezza del somaro
「アルデンテな男たち」原題 Mine vaganti
の4本。
1日で4本も映画を見て、ヘロヘロで、加えて明日は早番で、5時起きなので、詳しい内容については、後日。
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2010年12月16日

Space Battle Ship ヤマト を見てきた。

今、話題の映画ってことで、平日の昼間の空いている時間帯に見てきた。近くにあるワーナーマイカルのシネマコンプレックスで見たのだけれど、ガラガラ。100席以上の劇場に、10人ほどだった。世代的には、僕が子供のころ夢中になったのは、鉄腕アトム、鉄人28号で、かろうじてマジンガーZは見ていたが、ガンダムになると最早大人になってしまっていて、夢中になってみる年ではなかった。銀河鉄道999もそうだった。エヴァンゲリオンは、話題になった後に、深夜に一挙再放送したものをビデオに録画して、見てはいる。
そんなわけで、ヤマトのオリジナルアニメ自体、熱心に見ていたわけでもなく、その実写版についても、大して興味があったわけではない。
今回、わざわざ見に行こうと思ったのは、日本製SFのCGってどれくらいのものなのだろうって興味があったからだ。

大人になって、新作が出るたびに、見に行っていたのが、スターウォーズだったりするのだが、スターウォーズの第1作が公開されたのが、1977年で、それ以前のSF映画の傑作としては、2001年宇宙の旅があった。
しかし、スターウォーズの特撮(昔はこんな言い方だった)は、実に素晴らしく、作り物なのに、リアリティに溢れていた。

今回ヤマトを見て思ったのは、やっぱりプラモデルなんだよね。CGを駆使して作っているのだろうけれど、作り込みがいまひとつで、例えば戦闘シーンにおける飛び方にしても、とっても不自然。アニメなら納得できちゃうところでも、実写版となると、アラが見えてしまう。
イスカンダルに着陸してからの、銃撃戦でも、どうして酸素のないところで、火薬が燃えて発射される銃が撃てちゃうわけ?
大昔の人形劇、サンダーバードの方が、もっとリアルな感じがしたと思ってしまう。

ストーリーは、どうでも良いと思って見に行ったのだけれど、臭い台詞が多すぎ。木村拓也演じる古代と黒木メイサ演じる雪のメロドラマにはうんざり。

明らかに作り物なのに、ついつい惹きこまれて見てしまう、ゴジラシリーズの初期作品のような、作り手の側のパッションというか情熱ってものが、希薄になっているのかな?

僕的には、とってもつまらない映画だった。
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2010年05月22日

David di Donatello 2010

イタリア映画祭があったこともあって、映画のネタが続くのだが、イタリア映画界における最も権威のある賞、ドナッテッロ賞の発表があった。
今年のイタリア映画祭で上映されたいくつかの作品が受賞していることもあり、記事にすることにした。
ドナッテッロ賞の公式サイトにある今年の受賞作品をざっと紹介しておく。
ネタ元はここ
http://www.daviddidonatello.it/vincitori2010.htm

最優秀作品賞
L'uomo che verra'
イタリア映画祭では、「やがて来る者」の邦題で上映された作品である。

最優秀監督賞
マルコ・ベッロキオ
作品「Vincere」イタリア映画祭では、「勝利を」の邦題で上映された。

最優秀新人監督賞
Valerio Miele
作品「Dicei inverni」
調べてみたら、昨年の東京国際映画祭で「テン・ウィンターズ」の邦題で、上映されたようです。
http://puntarelle.exblog.jp/12171451/
残念ながら僕は未見。ちょっと見てみたいかも、、、

最優秀脚本賞
Francesco Bruni、Francesco Piccolo、Paolo Virzi
作品「la prima cosa bella」
この映画の監督Paolo Virziは、昨年のイタリア映画祭で、上映された「見わたすかぎり人生=原題Tutta la vita davanti」の監督。残念ながら僕は映画祭では見ていない。作品自体は、イタリアの友人から送ってもらって、手元にあるのだが、時間が無くて途中までしか見ていない。
その彼の最新作がこれ。今年の1月に一般公開されたばかりのようで、来年のイタリア映画祭で取り上げてくれれば、いいのだけれど、、、、

最優秀制作会社
Arancia film、Rai cinema
作品「L'uomo che verra'」

最優秀主演女優賞
Micaela Ramazotti
作品「La prima cosa bella」

最優秀主演男優賞
Valerio Mastandrea
作品「La prima cosa bella」

Valerio Mastandreaは、今年のイタリア映画祭では、「ジュリアは夕べにでかけない」で主演していた。

最優秀助演女優賞
Ilaria Occhini
作品「Mine vaganti」
この映画は、今年の3月に公開されたばかりの映画で、監督はFerzan Ozpetek。公式サイトはここ
http://www.minevaganti.net/
オズペテック監督作品は、イタリア映画祭の常連だ。これも来年のイタリア映画祭で見れたならいいなw

最優秀助演男優賞
Enio Fantastichini
作品「Mine vaganti」

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2010年05月18日

イタリア映画祭2010その12「やがて来る者」

今回のイタリア映画祭で、最後に見たのが、Giorgito Diritti監督作品「やがて来る者=原題L'uomo che verra'」だった。今回の映画祭のプログラムには、彼のインタビューが載っていたが、その冒頭の解説では、ここ数年のイタリア映画界でもっとも謎めいた存在と書かれていた。
というのも、彼が自主制作した長編映画「Il vento fa il suo giro(日本では未公開で、プログラムの中では『風は自分の道を巡る』と訳されていた)」が、各国で賞を受賞し、イタリアではミラノの単館上映で1年半のロングランされた。しかし、実際に彼のこの作品を見たイタリア人は、ごく限られた人たちだったからだ。
幸運にも、僕はイタリア人の友人が面白い映画があるからとDVDを送ってくれて、この作品を見ている。このブログでも記事にしているので、詳しくはそっちを見てほしい。

で、今回の作品なのだが、第二次大戦中に、イタリアで実際に起きた、ナチスドイツによるイタリアの村人の集団虐殺を描いたものだ。イタリアでは「マルザボットの虐殺」として知られているそうだ。
主人公は、幼い少女。彼女は生まれたばかりの弟を亡くして以来口が聞けなくなっている。そんな彼女が住む村は、ナチスドイツとパルチザンの戦いの最前線にあった。パルチザンのゲリラ攻撃に手を焼くナチスドイツ軍は、ついに村人全員をパルチザンのメンバーとみなし、老人や女子供も含めて虐殺してしまう。
その中で生き延びた主人公の少女は、生まれたばかりの弟と共に、「やがて来る者」を待つ。

歴史的考えれば、「やがて来る者」とは、イタリアを「解放」した連合軍=アメリカ軍ってことになるのだと思う。

この映画も、彼の前作同様、舞台となったボローニャ近郊の村の方言が使われている。アルバ・ロルヴァケルやマヤ・サンサといった現在のイタリア映画を代表する女優たちも出演しているが、彼女達も方言で演じている。
映像も、前作同様、そこに住む人々とそれを取り巻く自然を丹念に映し出し、物語りに重厚さをもたらしていた。ある意味、イタリア・ネオレアリスモの系譜を感じさせる作品だった。
この作品の直前に上映された「元カノ/カレ」と対極をなす作品である。
商業主義がはびこっている日本では、あまり一般受けするとは思えないこの監督の作品が一般公開されることは、まずないと思うのだが、機会があったら、是非見てほしい映画だ。
ちなみに、イタリアでもっとも権威のあるイタリア映画に与えられるドナテッロ賞の今年の受賞作品である。
posted by tady at 21:05| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月15日

イタリア映画祭2010その11「元カノ∕カレ」

11本目に見たのが、Fausto Brizzi監督作品「元カノ∕カレ=原題Ex」である。イタリア語でExとは、元を意味する。元大臣なんて時に、Ex-ministroなんて使う。この映画では、Ex-ragazzo∕aって意味なのだろう。
多分、今回のイタリア映画祭でもっとも人気というか評判の良かったのが、この作品ではないかと推測する。
僕自身も、今回の映画祭のチラシを見て、一番気になっていた作品だ。
この監督は、日本では未公開で、僕もまだ見ていないのだが、イタリアで大ヒットした映画「NOtte prima degli esami=卒業試験前夜」の監督であるからだ。

この作品も実に良くできている。イタリア映画祭で上映される作品のほとんどが、いわゆる玄人受けするようなものが多い。作品としての質は高いのだが、一般受けするかというと、そうでもない。日本の映画に例えると、「釣りバカ日誌」とか「寅さん映画」は含まれていない。僕的には、そういったイタリアB級映画も見たいのだが、「朝日新聞」主催ってことで、格調の高い映画でないとダメみたいなのだ。
そんな中で、一般受けする商業映画(日本的に言うと、フジテレビが作る例えば「踊る大捜査線」みたいな)として作られたのが、この映画ってことになる。

映画の冒頭で、大学で心理学を教える登場人物の一人セルジョ(Claudio Bisioが演じている。彼は僕の好きな監督、サルバトーレス映画の常連でもある)が、人は恋に落ちるとドーパミンが出てきて幸せになるのだが、それは2年しか続かない。だから、恋は科学的に見て2年で終わる。つまり、男も女も、みんな元カレ・元カノになっちゃうんだと講義する。
そんな、元カレと元カノの物語なのだ。
しかし、話はそれほど単純ではない。好きになり、結婚し、子供が出来、でも冷めてしまってわかれても、男女の関係は割り切れないのだ。
この作品には、6つのカップルが登場する。
まだ結婚もしていないラブラブのカップルなのだが、彼女の転勤により遠距離恋愛を強いられてしまうジュリアとマルクのカップル。
長年連れ添い、子供たちも巣立とうとしているのだが、喧嘩の絶えないルカとロレダーナ。
判事であるルカは、離婚調停の裁判を抱えており、その調停の当事者であるフィリッポとカテリーナ。
失恋の痛手から神父になってしまったコッラードは、皮肉なことに、その失恋相手であるエリザの結婚式の神父を務めることになってしまう。
自由奔放な女性モニークの恋人であるパオロは、彼女の元カレで、警察官であるダヴィデに、彼女に近づくなと追い回されてしまう。
そして、恋は2年で終わると講義しているセルジョは、元妻の突然の事故死によって、恋人との関係を断ち、二人の娘と一緒に住むことになる。

これだけの複雑な6組の愛と憎悪の物語を、笑いを交えながら手堅くまとめてしまうのは、すごい。監督の手腕もさることながら、ヒットする商業映画を作るって意図が明確にあるからなのだろう。
そして、いずれのカップルにもハッピーエンドが待っている。ハリウッド映画のような虚仮威し的映像表現はないのだけれど、イタリア的男女間の情愛を実に一般受けするように作っている。
出演している俳優達も皆名優ぞろいだ。お金をかけてるなぁーって感じ。
きっとこの映画は、日本でも一般公開されると思う。
作り物ではあるのだけれど、見終わったあとに、ちょっとジーンとくるようないい映画だ。もちろんそれを計算して作っているのだと思うけれど、、、、それも悪くない。
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2010年05月14日

イタリア映画祭2010その10「それもこれもユダのせい」

さて、10本目。Davide Ferrario監督作品「それもこれもユダのせい=原題Tutta colpa di Guida」がその作品だった。
受刑囚たちの文化活動のために、舞台を創作することを依頼された演出家が主人公である。若い前衛劇の演出家であるイレーナ(ポーランド出身のKasia Smutniakが演じている)は、刑務所に勤務する神父ドン・イリディオに、受刑者たちが演じる舞台の演出を依頼される。自身は、キリスト教を信じているわけでもなく、ましてや男ばかりの受刑者たちにどのような劇を演じてもらうのか躊躇するのだが、受け入れる。
様々な罪で、収監されている受刑者たちを前に、彼女の試行錯誤が続く。
結局、キリストの受難(十字架への張り付け)をテーマに創作劇を行うことにするのがだ、犯罪を犯しているとはいえ、仁義を通す受刑者たちは、誰も裏切り者であるユダを演じようとはしない。
彼女の演出が、あまりにも前衛的でキリスト教の教義に反すると反対する神父。いかにも事なかれ主義にみえる刑務所長。自らの表現にこだわるイレーナ。そして、どう演じていいのか戸惑う受刑者たち。さらに、刑務所長とイレーナが恋仲になってしまい、それに反発する受刑者たち。

紆余曲折がありながらも、受刑者たちの心が一つとなり、舞台本番となる直前に、ラジオから政府が恩赦を行うというニュースが流れ、大半の受刑者たちは、釈放となる。

今回も監督が来日していたのだが、残念ながら、僕が見たのは2回目の上映で、監督の舞台挨拶も、上映後の質疑応答もなかった。会場で販売されていたプログラムによると、きちんとした脚本はなく、実際の刑務所で、受刑者たちを出演者として、製作を行う中で、作品が出来上がっていったということのなので、いろいろと聞いてみたいことはあったのだが、、、

映画の最後に、恩赦で刑務所を出て行く受刑者たちのシーンがあり、その後にドキュメンタリーとしての映像が流れる。映画の中では、娑婆に出て行く出演者たちが、現実には映画の撮影も終わり、本来の囚人として獄に戻っていく姿が映されている。
夢と現実の境界が明らさまに描かれているのだが、その一方で、映画に出演した本当の犯罪者であり受刑者である彼らは、どんなことを思ったのか、気になってしまった。

彼の作品は、イタリア映画祭の常連になりつつあり、監督自身も彼の作品が上映される年は、いつも来日している。僕が最初に見たのは、2005年のイタリア映画祭で見た「Dopo mezzanotte」だった。イタリア映画祭でのタイトルは、原題の日本語訳である「真夜中を過ぎて」だったが、2006年に日本でも一般公開となり、その時の邦題は「トリノ、24時からの恋人たち」となっていた。また、2007年のイタリア映画祭では、「プリモ・レーヴィの道」も上映されている。
いずれの映画も、いかにもイタリアの左翼インテリが作った作品って感じで、僕好みであった。

今回の作品も実に彼らしく、犯罪者とキリスト教と信者ではない人をうまく絡み合わせて、面白いものになっていた。
イレーナが、自分はキリスト教の信者ではないので、キリスト教に則した作品を作ってほしいといわれても出来ないと答えるシーンがあって、その時に、じゃああなたは無神論じゃなのか?と言われ、そうではないと答えるのだが、このへんの信仰に対する微妙な感じが面白かった。
イタリア語的に言うと、信者=credenteと、信者ではないnon credenteがあって、さらに神の存在自体を認めない無神論者=ateoってのがあって、イタリアの文化的には、信者ではなくても、神の存在を否定しないnon credenteは、許容範囲なのだけれど、無神論者は、許容範囲を越えてしまうって話を以前聞いたことがあるのだが、まさにそれだった。

出演者のほとんどが、プロの俳優ではなく素人、それも実際の受刑者たちであるっていうのも、この作品の面白さであり、いかにもフェラーリオらしい、実験的な作品であった。
映画として成り立たせるために、見ている側からすれば、それはないだろう!って展開もあったのだが、それを差し引いても、十分に楽しめる作品だった。
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2010年05月13日

イタリア映画祭2010その9「まっさらな光のもとで」

ようやく9本め。Francesca Comencini監督作品「まっさらな光のもとで=原題Lo spazio bianco」は、ナポリの夜間学校の教師であるアラフォー女性マリア(Margherita Buyが演じている)である。バツイチで子供はない。しかし、年下の彼氏の子を身ごもってしまう。彼と別れ、一人で産む決心をするのだが、6ヶ月で早産してしまう。子供が生まれたものの、果たして生き延びるのかどうか分からないまま、母親としての実感も持てず、保育器の中の子供を見つめる。タイトルの直訳は、白い空間なのだが、これは保育器の置かれている病室を意味しているのだろう。
そんな彼女を何くれと無く支えるのが教師仲間のファブリツィオだ。見ていると、なんとなく彼はゲイではないかって印象を持った。
母親にもなれず、かといって仕事にも戻れないという宙ぶらりんな状態の中で、マリアは、保育器の中にいる他の赤ん坊たちの母親から学び、仕事を再開し、夜間学校の生徒達に励まされ、保育器から子供が出てくるのを待つ。
社会派のコメンチーニ監督らしく、隣人にマフィアの裁判を抱える女性判事が越してきて、厳重な警備がしかれたりするのだが、いかにもナポリならありそうな設定に思わずにんまりしてしまった。また、その警備の中、女二人で、家にやってくる蟻の退治の仕方を語るなんて場面は、笑えた。

主演のMargherita Buyは、アラフォー世代の独身女性を実にうまく演じていた。「もうひとつの世界」の修道女と比較すると面白い。

ベニーニの連れ合いであるニコレッタ・ブラスキが主演した、職場でのいじめを描いた「ママは負けない」も良かったけれど、この作品も、女性らしい視点で描かれていて、なかなか良かった。
ただ、日本での一般公開はないだろな。
posted by tady at 20:14| ローマ ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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