2010年05月12日

イタリア映画祭2010その8「重なりあう時」

初日、2日目と映画を見て、連続で休みは取れないので、GW中の3日と4日に後半を見た。
3日の1本目は、Guiseppe Capotondi監督作品「重なりあう時=原題La doppia ora」だった。
彼の長編映画初作品である。ミステリー仕立ての作品で、ホラー映画的シーンもあったりして、娯楽作品としては、そこそこ楽しめた。イタリアンホラーっていうと、ダリオ・アルジェントや、イタリア系アメリカ人のデ・パルマなんかを思い出すのだが、その系譜をちょっとだけ感じた。
「勝利を」で、ムッソリーニを演じたFilippo Timiが、同じ俳優とは思えない全く別の演技をしているのも面白かった。

重なりあう時とは、例えば10時10分10秒みたいな、時間と分と秒が同じ数字になる時のことを指している。そんな時に、気がついたら、願い事をするとかなうというのが、タイトルの意味だ。
作品内容は、トリノのホテルで働くスロベニア出身の女性ソーニャ(ロシア、サンクトペテルブルグ出身のKsenia Rappoportが演じている)が、出会い系のイベントで、元警官で、現在は金持ちの別荘の警備員をしているグイド(「勝利を」でムッソリーニを演じているFilippo Timi)と知り合うところから始まる。恋仲となった二人は、ある日グイドが警備する別荘に遊びにいく。屋敷中に張り巡らされている防犯センサーを切り、敷地内の森を散策する二人。するとそこに、窃盗団がやってくる。二人は拘束され、窃盗団は別荘の中にある美術品をごっそり盗んで行く。ソーニャにちょっかいを出そうとした窃盗団の一人に飛びかかったグイドは、銃で打たれてしまう。
ソーニャは、彼の体を貫通した銃弾を額に受け、一時昏睡状態となるのだが、どうにか生還し、元の職場で働きだす。しかし、彼女の元へ、死んだはずのグイドがやってくる。
グイドの影に怯え、混乱する彼女。

ここからはネタバレになってしまうのだが、まあ、日本で公開されることは、なさそうだから書いてしまう。
とりあえず、追記で書くので、映画を見てみたいって人は見ないでねw続きを読む
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2010年05月10日

イタリア映画祭2010その7「もうひとつの世界」

7本目に見たのは、今回のイタリア映画祭で、特別上映された旧作2本のうちのひとつ。Giuseppe Piccioni監督の1998年作品「もうひとつの世界=原題FUori dal mondo」だった。
彼の最新作「ジュリアは夕べに出かけない」も上映されている。
新旧作品を比較するのも面白い。

この作品の内容は、終生誓願(=キリスト教に身を捧げ一生修道女として生きると宣言「宣立と言うらしい」すること)を控えた修道女カテリーナが、ひょんなことから捨て子を拾うことになる。その赤ちゃんは、病院で治療を受けるのだが、その間に、彼女のは赤ん坊が包まれていたセーターから、捨てた親を探そうとする。その過程で、知り合うのがクリーニング店を経営するエルネストだ。
もしかすると自分の子かもしれないと思うエルネスト。一方で、赤ん坊を世話することで、果たして結婚もせず一生修道女として生きるという決意に揺らぎが生じるカテリーナ。
二人して、母親かもしれないクリーニング店の元従業員である女性を探すことになる。
病院に預けられていた赤ん坊は、里子に出されることになるのだが、その期限を前に、カテリーナは、母親を見つけ出す。
その少女は、ある事情からどうしてもその子を捨てざるを得なかったことが分かる。
作品の中では、明確に描いてはいないのだが、少女の両親は離婚しており、一緒に住んでいた母親の新しい男=義理の父親に強姦されて出来た子供であることが暗示される。

原題のFuori dal mondoを直訳すると、世界の外側ってことになるのだが、カテリーナにとっては、信仰に生きようとする世界の外側を意味し、独身中年男のエルネストにとっては、今までの生活からは考えられない「家族」の出現を意味する。
この捨て子を巡る一連の出来事から、二人は改めて現在の自分の有り様を考え、新たな視点で世界を見るようになる。

来日していた監督との質疑応答が上映後にあったのだが、その中で、監督は、修道女を描くと不幸が訪れると言われていたのだが、この作品ではそんなことはなかったと話していた。
また、自分自身はキリスト教を信仰しているわけではないが、小さい頃からキリスト教の中で育ってきたので、一般的なイタリア人が知っている程度には、修道女についても描くことができたと語っていた。
宗教と信仰の問題っていうのは、どんな宗教であれ、常に抱えている問題であろう。今回上映された作品の中の「それもこれもユダのせい」を見たときにも感じたことなので、後で書こうと思う。
主演はマルゲリータ・ブイで、この作品ではストイックな修道女を演じているのだが、やはり今回の映画祭で上映された「まっさらな光のもとで」では、未熟児の私生児を産むアラフォー女性を演じていたりして、これもまた比べてみると面白い。

字幕なのだが、1998年の作品ってことで、当時作成された日本語版なのかどうかわからないのだが、イタリア語を聞きながら字幕を読んでいると、字幕の訳がぜんぜん熟れてなくて、オイオイって思うところがたくさんあった。
イタリア映画際の別の楽しみ方として、熟れた翻訳の場合は、誰が字幕翻訳をやったのかをチェックするのも面白いのだが、この作品の翻訳者は、あまり見たことのない名前だった。
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2010年05月09日

イタリア映画祭2010その6「ハートの問題」

6本目に見たのは、Francesca Archibugi監督作品、「ハートの問題=原題Questione di cuore」だ。
僕にとって、アルキブージ監督というと、Mignon e' partitaの監督ってイメージがある。昔、友人の娘の友達が言っていたことなのだが、彼女達の世代にとっては、カルト的な作品のようだ。現在のアラサー世代のイタリアの女性たちってことなになる。
女性監督ならではの、細やかな映像表現が、気に入っている。

また、日本でも公開されたウンブリア州の地震を描いた「明日、陽はふたたび=原題Domani」も印象深い。昨年は、アクィラであった地震で、多くの被災者がでたのだけれど、その魁ともいえる作品だった。

さて、今回の作品だが、ハートの問題とは、文字通りの心臓の問題=病気と、友情の問題がかけてある。
同じ日に、心臓のトラブルで病院のICUで出会った二人が主人公である。人気脚本家で、芸能界に様々な人脈を持ちつつも、本当の友情を得ることの出来ないアルベルト(アントニオ・アルバネーゼが演じている)と、ローマの下町で、自動車整備工場を経営するアンジェロ(キム・ロッシ・スチュアートが演じている)が、その二人だ。
二枚目の役が多いキム・ロッシ・シュチュァートが、しがないローマの下町の自動車整備工を演じているのだけれど、これがまた良い。
僕は、ローマに2年住んだことがあるのだけれど、彼のローマ方言が妙に懐かしかった。
この作品「ハートの問題」は、実にハート・ウォーミングな作品である。
イタリア映画祭だけでなく、日本での一般公開が望まれる作品だと思った。
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2010年05月08日

イタリア映画祭2010その5「勝利を」

今回のイタリア映画祭で、5本目に見たのが、Marco Bellocchio監督作品「勝利を=原題Vincere」だ。
ベニート・ムッソリーニに恋をし、彼の子供を産みながら、その関係を認められることなく、狂人扱いされて精神病院に隔離されてしまったイーダ(Ida Dalser)の半生を描いた作品である。
この様な女性がいたということを、監督自身も知らず、イタリア国営放送RAIのドキュメンタリーで知ったそうで、僕もこの映画を見て初めて知った。
ムッソリーニと言えばファシズムとすぐ連想するのだけれど、実は、彼は元社会主義者で、イタリア社会党の機関紙Avanti!の編集長を務めたこともある人物である。また、彼の名前ベニートは、メキシコで、先住民から選ばれた初の大統領であるベニート・ファレスの名前から来ているんだそうだ。
そんな彼が、社会主義と袂を別ち、ファシズムを作り上げ独裁者となる過程で、若きムッソリーニを経済的も支援した女性がイーダだった。
しかし、彼が権力の座に付き、公には、ラケーレという妻を持っていたために、イーダは、権力によって、彼女の存在自体を抹消されてしまう。
精神病院に隔離というよりも監禁されていながら、正気を失うことなく、自らの存在を訴えつづけるGiovanna Mezzogiornoの演技は、鬼気迫る物がある。
同時に、若き日のムッソリーニを演じたFilippo Timiの演技も、まさに怪演。後で書くけど、今回のイタリア映画祭では、「重なりあう時」という作品でも、Filippo Timiが主演しているのだが、比較してみると全くの別人ではないかと言うくらい演技に幅があるのも面白かった。この映画では、ムッソリーニの隠し子が成長した時の役も演じていて、後半に出てくる彼の演技もまた、すごい。

政治的な善悪とは関係なく(ファシズムを礼賛しているわけでもなく、また批判しているわけでもない)、一人の女性の生き方を描いた作品として、見るべきなのだろう。
ただ、ここでもやっぱり、昔の話かって感じはした。現在のイタリアの政治状況を考えれば、映画というメディアが持つ力を、現状を変革する力として使えないのかなぁーと思ってしまったのだ。
監督が来日していて、上映後に質疑応答があり、現在の政界にも、アレッサンドラ・ムッソリーニっていうムッソリーニの子孫がいるわけで、この作品がどんな風に受け止められたのか気になったのだが、会場から「アレッサンドラ・ムッソリーニの反応はどうだったのか?」って質問があり、監督の答えは「史実を描いているので、ムッソリーニ家側からの具体的なコメントはなにもなかった」と答えていた。
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2010年05月07日

イタリア映画祭2010その4「バール・マルゲリータに集う仲間たち」

イタリア映画祭2日目の4月29日最初の映画は、原題「Gli amici del Bar Margherita」だった。
監督はPupi Avati。昨年のイタリア映画祭で上映された「Il papa' di Giovanna」監督である。この作品は「ボローニャの夕暮れ」というタイトルで、日本での一般公開されることになったようだが、残念ながら僕は見ていない。
今回の映画は、1954年のボローニャにあるバール、マルゲリータに集まる常連たちの話。
イタリアのバールというのは、日本で言う昔の喫茶店みたいなところで、常連の茶飲み友達が集まる場所である。自分の住んでいる地区の、バールの常連となって、その仲間に入れてもらえるってことは、ちょっとした名誉なわけだ。
映画は、そこの常連に加えてもらおうとする若者が主人公で、彼の目から見た常連達(みな一癖も二癖もあるような変わった連中)を描いている。
特に印象に残ったのは、ルイジ・ロ・カーショが演じるシシリアからやってきたチンピラだった。見ていて、田代まさしを思い出してしまった。「ペッピーノの百歩」や「輝ける青春」をはじめとするロ・カーショの演技からは想像出来ない軽薄さで、彼の役者としての幅の広さを感じた。
ストーリー自体は、古き良きイタリアの話で、こういう映画が出てくるって事自体が、現在のイタリアの閉塞感を表しているのかな? なんて思ってしまった。
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イタリア映画祭2010その3「コスモナウタ」

今回のイタリア映画祭で見た3本目は、Susanna Nicchiarelli監督作品、原題Cosmonautaだ。

邦題では、宇宙飛行士となっているが、作品を見ると、当時のソ連の宇宙飛行士は、コスモナウタで、アメリカの宇宙飛行士は、アストロナウタとイタリアでは呼んでいたらしい。

米ソが宇宙開発競争をやっていた1960年代初頭の、イタリア共産党に心酔する女の子が主人公である。

東西冷戦が緊迫度を増し、イタリアでは共産党が野党第1党となり、社会的緊張感が高まって、テロの時代に突入する直前の、ある意味牧歌的な時代が描かれている。

主人公の女の子は、亡くなった父親が共産党員で、その影響を受け、小さい頃から反骨精神の塊みたいな行動をとる。

コムニオーネ=聖体拝領(10歳前後に、カトリックの信者として初めて聖体拝領を行う儀式があり、それをプリマ・コムニオーネと呼ぶ)の時に、主人公の彼女は、自分は共産主義者だからと会場から逃げ出したり、彼女の兄が行方不明となったときに、学校の宗教の授業で、皆が無事に見つかるように祈りを捧げるのだが、彼女だけは、神に祈らない。
また、左翼政党=社会党と共産党の対立なんかも描かれていて、イタリアの政治の歴史を知っていると、なかなか面白い。

監督が来日していて、上映後に質疑応答があって、その時に語っていたのは、アメリカがアポロ計画によって月面着陸を成功させたことで、それ以前のソ連が優位を保っていた時代。最初の人工衛星スプートニックの打ち上げに成功したり、犬を乗せたロケットを打ち上げたり、そしてガガーリンが初の宇宙飛行に成功したことが、忘れ去られてしまった。だから、歴史的にあまり注目されなくなってしまった、その時代を描きたかったってなことを言っていた。

年齢的には、監督自身が経験したはずのない時代のことなのだが(彼女は1975年ローマ生まれ)、時代の雰囲気を実によく伝えている。

ただ、現在のイタリアの政治状況や、若者の置かれた状況を考えると、どうしても、あの頃は良かったっていうノスタルジックな映画って思ってしまう。
音楽は、当時流行っていた曲を、現在のミュージシャンがカバーする形で、新しいテイクとなっていて、新鮮ではあったけれど、、、
まあ、長編映画初作品ってことなので、今後の作品に期待したい。
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2010年05月02日

イタリア映画祭2010その2 「ジュリアは夕べに出かけない」

2本目は、Giuseppe Piccionni監督の、原題「Giulia non esce la sera」だった。
主演は、Valerio Mastandreaで、その相手役は、Valeria Golinoだ。
主人公は、有名な文学賞にノミネートされるほどの、名の売れた作家。一人娘がおり、父親として娘を思っているのだが、夫婦関係は既に気持ちが離れてしまっている。
水泳教室に通わせていた娘が、実は水泳は嫌いだと打ち明ける。もう1年分の費用は前払いしてしまったので、自分が通うことになる。
そこで出会うのが、水泳のインストラクターをやっている女性、ジュリアだ。
妻は既に、新しい家へと引越し、別居状態である彼は、ジュリアに惹かれるようになる。
夕食に誘うのだが、彼女は夜は外出しないのだと拒絶する。
やがて明かになるのは、ジュリアは殺人の罪で有罪となり、服役中で、昼間だけ刑務所の外に出て、水泳のインストラクターをすることを許されているということだった。

ジュリアは、夫も娘も捨て、男のもとへと走り、その男が自分から離れていくことを知り、殺害してしまった過去を持っていた。

主人公の作家と妻の冷えた関係、自ら捨てたのだが、娘と会いたいと願うジュリア、そしてまた作家の娘コンスタンツァの幼い恋などを織り交ぜながら話は進んで行く。

イタリアの刑の制度と日本のそれとはかなり違うので、殺人で有罪判決を受けた囚人が、刑務所の外に出て仕事をしているって設定は、日本人にはちょっと理解するのが難しいかもしれない。
しかし、そういった違いを別にして、ある意味複雑な過去を抱えた男女の恋愛ってことで見れば、理解しやすい。

プールのシーンが多いのだが、見ていて思い出したのは、ナンニ・モレッティの赤いシュートだったりする。
http://www.oeff.jp/article190.html

映画は、悲劇的な結末を向かえるのだが、様々なものを背負い込んでしまったジュリアに対して、主人公の作家が、あまりにも第三者的であるのが、どうにも納得いかなかった。
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2010年04月30日

イタリア映画祭2010その1「ただ、ひとりの父親」

今年もGW恒例となった(もう10回目だから恒例でいいだろう)、イタリア映画祭が始まった。
僕は、どうにか休みを取ることが出来て、4月28日・29日と、5月3日・4日の4日間で、合計12本のイタリア映画を見ることができそうだ。
で、開催初日の28日と翌日の29日にまず7本を見てきた。
今回の映画祭で、最初に上映されたのは、「ただ、ひとりの父親」である。
原題はSolo un padre。監督はLuca Lucini。主演はLuca Argenteroだ。
この日は、東京はかなりの大雨で、上映前に予定されていた監督の舞台挨拶は、監督が渋滞に巻き込まれてしまって、行われなかった。でも上映後の質疑応答には間に合って、少し話が聞けた。実は、この監督、イタリアでベストセラーとなった小説「3 metri sopra il cileo」が映画化された時の監督である。僕は小説も映画も見たのだけれど。小説は、いわゆる青春小説で、そこそこ面白かったけど、映画の方は、かなり期待はずれだった。

今回上映された作品には、原作があって、オーストラリアの作家、Nick Earlsの「Perfect skin」=イタリア語訳のタイトルは「Le avventure semiserie di un ragazzo padre」だそうで、映画のタイトルと、イタリア語に訳された原作のタイトルが違うのは、イタリア語訳のタイトルだと、映画の内容が曲解されるので、映画の内容にそったものに変えたのだと、言っていた。
ちなみに、イタリア語訳された原作のタイトルを訳すと「シングル・ファザーのちょっと真面目な冒険」と言った感じになる。これだと、コメディと間違われてしまいそうなので、タイトルを変えたという監督の話しには納得。
さて、映画の内容はというと、主人公である皮膚科医のカルロは、生後1年ほどの娘ソフィアを育てているシングルファザーである。
なぜ彼がシングルファザーになったかというと、妻が出産したときに、DICを発症して死亡してしまったからだ。
映画を見ていて、この病気どっかで聞いたことがあると思って記憶を辿ったら、久坂部羊の「破裂」って小説に出てきた病気だった。

出産時に妻に死なれ、乳飲み子を抱えて、頑張るシングルファザー。回りはそんな彼を支えようと協力をする。
見始めてすぐに思ったのは、赤ちゃんと主人公と共同生活をしている同僚の男二人って構図が(それもその内のひとりはゲイである)、フランス映画の「赤ちゃ
んに乾杯」そっくりってことだった。

なるほど、その手の映画のリメイクかと思いつつ見ていると、赤ちゃん=ソフィアの誕生の背景が明かになり、映画は、主人公の内面を描く重厚なものへと変って行った。

彼と亡くなった妻の関係は冷えきっており、もう別れようと決めた夜に、昔のいい関係だった頃を思い出しながら、これが最後と寝たときに、子供を授かってしまったのだ。
妻は、子供を生むことを望まなかったのだが、彼がどうしても子供が欲しいと、冷えきった関係でありながら、生まれてきたのが、ソフィアだった。
彼は、もし自分が子供を望まなかったら、彼女が死ぬことはなかったのだと、生まれてきた子供を育てつつも、苦悩している。
そんなところに現れるのが、脳科学を研究するためにフランスからやってきた女性カミーユである。

重くなりがちな主題を、救ってくれているのが、ソフィアの存在だ。赤ん坊に演技ができるわけではないのだが、彼女が実に愛らしくて良い。
今回の映画祭のプログラムを見ると、演じているのは、Michela GattoとFabiana Gattoとなっているので、双子の赤ちゃんらしい。

生まれたばかりの赤子を抱え、妻に死なれてしまった主人公が、映画の舞台であるトリノから、リグリアの海岸に行き、入水心中を図ろうとするシーンがあるのだが、日本に比べて自殺がずっと少ないイタリアで、どうしてそんな自殺を暗示するようなシーンがあるのかな? って疑問を感じて、上映後の質疑応答の時に質問してみたのだが、なかなか面白い回答が監督からあった。

主人公が自殺(娘との心中)を図ろうとしたのは、波の荒い冬の海で、それを思いとどまり、1年過ぎて、その頃のことを思い出しながら、どうにか頑張ってきたと思いつつ再び訪れる海は、少し波が穏やかになった春の海。そしてカミーユと出会い、これからのことを考えつつ訪れる海は、さらに穏やかで、暖かい晩春の海として描いたということだった。
確かに、最後に訪れた海では、ソフィアが、砂浜で立ち上がろうとするシーンが描かれていて、なるほどそういう意図があったのかと、納得した。
見終わった後、心が暖かくなるような、良い映画だった。上映後に会場からも自然と拍手が沸いたのもうなづける。
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2009年10月31日

Turtle: The Incredible Journey

Turtle: The Incredible Journeyって映画が、この秋公開されている。
日本での公開はまだみたいだけど、先日終わったローマ国際映画祭でも上映されたようだ。
監督はNick Stringerって人で、主にテレビの自然派ドキュメンタリーを撮ってきた人のようだ。
http://www.imdb.com/name/nm2132433/
こっちのサイトによると製作は2008年となっているが、公開されたのは今年に入ってからみたいだい。
http://www.britfilms.com/britishfilms/catalogue/
browse/?id=519562D61b77c199DCgTq113F582


内容は、大西洋のヨーロッパ側で生まれた赤ウミガメが、大西洋を渡り、メキシコ湾まで旅をし、再び生まれたところに戻るまでの25年間を描いたものらしい。
ドキュメンタリードラマってカテゴリーなので、1頭のウミガメをずーっと追ったわけではないのだろうが、赤ウミガメの一生が、ドキュメンタリータッチで描かれている感じだ。

Save our seasってサイトにこの映画のページが設けられている。
http://www.saveourseas.com/turtlefilm
ここからwatchをクリックすると、ストリーミングで予告編の映像を見ることができる。
海の中の美しい映像が満載って感じで、本編を見たくなる。

宣伝用なので、美しいシーンが多いが、イタリアのメディアにでた紹介記事では、絶滅の危機に瀕しているウミガメの最大の敵が人間であるってことも描かれているようだ。
http://www.lastampa.it/lazampa/girata.asp?ID_blog=277&ID_articolo=18
&ID_sezione=637&sezione=News


イタリア語のサイトで、関連記事を探していたら、イタリア大統領と環境大臣が、ウミガメの里親になったってニュースも出ていた。
http://www.lastampa.it/lazampa/girata.asp?ID_blog=277&ID_articolo=19&
ID_sezione=637&sezione=News
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2009年05月12日

イタリア映画祭2009その6(Gomorra)

今年のイタリア映画祭のトリ、最後に上映されたのが、Gomorraだ。
これは、イタリアで大ベストセラーになったRoberto Savianoの同名小説(小説と言ってもノンフィクション・ノベル)を映画化したもので、日本では、昨年の東京国際映画祭で一度上映されている。
描かれているのは、ナポリの犯罪組織(原作ではシステムと呼んでいる)カモッラの実態だ。
あまりにも詳しく書いたため、原作者は、カモッラから暗殺予告が出されていて、著者には警察の警護がついているらしい。

原作は、日本語にも翻訳されていて、「死都ゴモラ」のタイトルで、河出書房新社から発売されている。ちょこっと読んだのだが、訳がかなり固くて、原作の雰囲気をあまり伝えきれていない感じ。僕は、現在イタリア語で読んでいて、あと数ページで終わるので、読後感や詳しいことは別の機会に載せます。

で、映画の方は、Matteo Gqarrone監督によるもので、脚本には原作者のSavianoも加わっている。
内容は、原作の中から、いくつかのエピソードを選び、それらをオムニバスではなく、それぞれ同時進行で、描くという形になっていた。

Mangiare Cantare Amare(=食べて、歌って、愛し合う)の国っていうイメージが一般的で、陽気で明るく、いい加減なのがイタリア人だと思っている人にとっては、かなりの衝撃をともなう作品だと思う。

マフィアをはじめとするイタリアの犯罪組織について描いた映画はいくつもある。比較的最近日本で公開されたサルバトーレスの「僕は怖くない」は、誘拐を主に行う犯罪組織ンドランゲタを描いているし、イタリア映画祭で上映された「犯罪小説」は、ローマの犯罪組織を描いている。
そんな中で、この映画は、かなり真実に近い内容だと思われる。
産業廃棄物の不法投棄に加担する若者ロベルトは、そのあまりの酷さに、足抜けをするのだが、これが、原作者Savianoをモデルとしている人物のようだ。

よくできた映画だと思うが、やはり原作のインパクトに比べると、物足りなさを感じる。
翻訳にやや難はあるが、興味のある人は、原作の翻訳を読むと良いかもしれない。
そうそう、この間新宿のタイムズスクエアの紀伊國屋に行ったら、イタリアの学校の副読本に再編集されたGomorraが売られていた。イタリア語で読もうという方は、解説付きなので、そっちの方が良いかも。ページ数も1/3ほどに再編集されていた。
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2009年05月09日

イタリア映画祭2009その5(La terra degli uomini rossi)

5月5日の2番目に上映された作品は、前回見たいのでパス。ちょいと秋葉原まで行って来て、3番目に上映されたMarco Bechis監督作品、La terra degli uomini rossiを見るために再び会場へ。
この監督は、2004年のイタリア映画祭で上映された「子供たち」の監督でもあり、生粋のイタリア人ではなくて、チリ人の母とイタリア人の父の間に生まれたイタリア系チリ人だ。
映画の舞台となっているのは、ブラジル南部のアマゾン奥地。
先住民居留地に押し込められた人々が、先祖の土地に戻ろうと、白人入植者の土地の不法占拠を行うっていうのが、メインテーマだ。
映画のタイトルは、作品の中では、Birdwatchersと英語で出てきていた。
映画の中の原語は、ポルトガル語と現地の先住民語だ
物質文明が入り込むことにより、アイデンティティを失って自殺する若者が増えたり、アルコールによる害がもたらされたりってことが描かれているのだけれど、白人入植者と先住民の対立っていうのは、世界のあちこちで起きていて、それらを描いたドキュメンタリーも多々ある。
だから、あえて、このような形の劇映画にしなくてもいいんじゃないかってのが、僕の感想。
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イタリア映画祭2009その4(Si puo' fare)

5月5日のイタリア映画祭で見たのは3本。最初は、Giulio Manfredonia監督のSi puo' fare=邦題「やればできるさ」だ。
設定は1983年のミラノ。舞台となるのは、精神病院の患者たちの協同組合だ。
イタリアでは、1978年にバザリア法ができて、精神病棟が閉鎖されている。バザーリアは、ヴェネツィア生まれの精神科医で、牢獄のような閉鎖精神病棟の廃止を訴えていた人物で、彼の努力によりできた法律、180号法のことを通称バザーリア法と呼ぶ。非常に先進的な法律で、あまり世界に類を見ない。

このような社会的背景があって、物語は進行する。
精神病棟が閉鎖されたために、解放されたものの行き場を失った人々が、精神病院の院長が管理する協同組合に加わり、行政から発注される「お恵み仕事」の切って貼りをこなしている。
そこへやってきたのが、労働組合の活動家であった主人公だ。
当時のイタリアは、西欧最大の共産党があり、労働組合も強い力を持っていた。しかし、彼の唱える市場原理は、労働組合側にも、経営者側にも受け入れてもらえず、結局追い出され、この協同組合にやってきたというわけ。

心の病を抱える人々と、どのように関係を持てばいいのかわからないまま、彼は、そこに隠された才能を見抜き、当の組合員たちに、ある選択を迫る。それは、「お恵み仕事」(原語ではElemosinaと言っていた。)か、市場原理に基づいた「本当の稼げる仕事」か、どちらがいいかという選択である。

向精神薬を大量に投与してコントロールしようとする古いタイプ精神科医である院長と、バザーリアの理想とすることを実践しようとする医師との対立や、病院の庇護の元から出て、地域社会へ溶け込むための苦労など、様々なことが起きてくる。

仕事(木材を使ってモザイクの床を作る仕事)は成功するのだが、組合員の一人が、一般の社会に溶け込みことに失敗し、心の闇を抱えたまま自殺してしまう。

これにショックを受けた主人公は、協同組合の仕事から一切手を引くのだが、この自殺を調査した医師たちは、彼の行った事業が、病の改善に大きく貢献していることを知り、主人公に協同組合の継続を依頼する。

深刻な問題を、重くなることなく、笑いに包んで提示するこの作品は、実によくできていると思う。

イタリア映画には、障害を持った人々がしばしば登場する。自閉症児を扱った「家の鍵」や、視覚障害者を扱った「ミルコのひかり」などは、過去のイタリア映画祭でも上映されている。

イタリア社会のことを良く知らないと分からない場面もあるので(ベルリングエルの訃報を聞いて、主人公が葬儀に出かけている間に、大変な事件が起きるシーンとか、、、)、予備知識は必要かもしれないけれど、日本でも一般公開されるいいなぁと思う作品だった。
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2009年05月06日

イタリア映画祭2009その3(Sonetaula)

2日は、2本の映画が上映された後に、来日していた監督や俳優による座談会が行われた。
毎年のことなのだけれど、来日した人たちが、自分たちの作品についてそれぞれ語り、それが一巡すると、ほぼ時間切れってパターンだった。もちろん、それぞれの映画のプロモーションってことで来日しているわけだから、致し方ないのかもしれないけれど、例えば、イタリアの映画業界の抱える課題だったり、社会的色合いの濃い作品が多いイタリア映画における監督やら俳優やらの政治・社会問題に対する姿勢みたいなものについて、突っ込んだ話がされるような、本当の意味での座談会っていうのを聞きたいもんだ。

座談会の後、その日の3本目は、Soneta'ula。邦題はそのままカタカナで、「ソネタウラ」。サルデニア方言で、鳴る板って意味らしい。来日していた監督は、方言ではなく、別の言語だと言っていた。原作となった同名小説のタイトルからそのままとったものらしい。主人公の少年が非常に痩せていて、時々骨と骨がぶつかる音が、木の板が叩かれて鳴る音に似ていることからつけられたあだ名が由来だそうだ。
監督はサルデニア出身のSalvatore Mereu。2005年のイタリア映画祭で上映されたBallo a tre passiの監督である。
舞台はサルデニアで、時代設定は第2次世界大戦前後。ようやくサルデニアの村にも電気がやってくるころのこと。羊飼いの少年が、止むに止まれぬ事情から、犯罪を犯し、追われるストーリーである。
イタリア人にも分かるように、全編イタリア語の字幕がついてた。157分というかなり長い映画だ。
思春期の少年が、心の中に巣食う、抑えがたい黒い情動に突き動かされて取った行動が、中央政府により犯罪とみなされ、逃亡生活を送らざるを得なくなる。映画の中では官憲のことをGiustiziaと呼んでいたのが、如何にも状況を象徴している。
軽妙洒脱で、ウィットとユーモアそしてちょっとエロスを感じさせるイタリア都会派映画とは、かなり違い、全体のトーンは重くて暗い。それはそのまま、当時のサルデニアの置かれていた状況なのかもしれない。

来日していた監督が、この映画を紹介する時に、イタリア映画ではあまり描かれていないサルデニア描いた映画で、サルデニアの置かれた状況は、日本の沖縄に似ているかもしれないって言葉が印象に残っている(残念ながら、通訳の人は、沖縄に言及した部分を飛ばしてたけど、、、、)。
サルデニアと沖縄はよく対比されることがある。日本の米軍基地が沖縄に集中しているように、サルデニアには、NATO軍や米軍の基地が集中している。使われている言葉も本土とかなり違っていて、かつてはサルデニア出身者は、本土で差別されていた。そういった類似性からか、サルデニア出身のイタリア人が、沖縄のことをよく知っているって場面にこれまでも何度か遭遇している。

それにしても、3本目に見る映画としては、長くてかなりしんどかった。
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2009年05月04日

イタリア映画祭2009その2(Il Divo)

5月2日の2本めは、Il Divo。日本語に訳すると「神」って意味だ。ただ、キリスト教における神は「Dio」と言い、こっちは異教の「神」って意味合いが強い。女性形になるとDIvaで、よく日本では歌姫みたいなときにディーヴァなんて使い方をしている。邦題は、そのままカタカナにしたイル・ディーヴォとなっていた。

この映画は、昨年イタリアでも大変話題になった作品でもある。それは、イタリア政界の妖怪とか、悪魔と呼ばれている老練狡猾な政治家、ジューリョ・アンドレオッティを描いているからだ。Divoとは、まさに彼のことを指している。
監督は、Paolo Sorrentino。彼の作品は、イタリア映画祭の常連でもある。

さて、その内容なのだが、まずは、演じている役者達が、実在の政治家たちに実によく似ている。もちろんそういうメーキャップをしているのだが、主人公のアンドレオッティを演じるToni Servilloの所作や姿勢は思わず笑ってしまうくらい実物に似ている。
また、イタリアについてよく知っている人が見れば、思わずうなってしまうような部分も多々あった。アンドレオッティがテレビを見ているシーンでは、画面は見えないのだが、Beppe Grilloがアンドレオッティを批判する声が聞こえてきたり、La Repubblica紙のトップであるスカルファリがインタビューするシーンなどは、まったく説明がないのだが、その背景を知っていれば、おもしろさが倍増だ。

実に深刻なイタリア政界の闇を描きながら、全編アップテンポのロックがBGMとして流れており、重くなりがちな話の内容を、ブラックユーモアへと変えている。

未だ存命で、現役の国会議員を主人公にして、こんな形で映画にしてしまうのは、やはりすごい。
一昨年のイタリア映画祭で上映された、ベルルスコーニを主人公にしたカイマーノもおもしろかったけれど、映画としての切れ味は、こっちのほうが上かもしれない。

日本では、この手の映画は、きっとできないんだろうな。未見ながら、昭和天皇を映画いた「太陽」だって、日本映画ではなくロシア映画だった。
日本の商業映画は、映画が持つエンタテイメントの側面ばかりが強調され、社会問題へ対峙するためのツールとしての役割を放棄しているような気がしてしまう。
イタリア映画には、未だにネオレアリズモの伝統が息づいているように感じた。
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2009年05月03日

イタリア映画祭2009その1(Riprendimi)

毎年、ゴールデンウィークに行われているイタリア映画祭も、今年で9回目になる。
今年から、全作品を見られるパスポート券がなくなり、当日券を除いて、すべてあらかじめ指定席を購入しなければならなくなった。
今の仕事を始めてから、ゴールデンウィークに休みをとることはできなくて、見たい作品が上映される日だけ休みを取って、どうにか上映される作品の半分ほどを見ることができる状態だ。
今年は、全部で12本の映画が上映されるのだが、僕が見られるのは6本だけ。
そんなわけで、どうしても見たいと思っていた2本が上映される日に休みを取った。
今年上映される作品の中で、どうしても見たいと思ったのは、「Il Divo」と「Gomorra」の2本。
昨日、そのうちの1本である「Il Divo」の上映があったので、それを見てきた。
もちろん、せっかくこの映画祭のために休みをとったわけだから、その日に上映される他の作品も見てきた。

5月2日に上映されたのは、Riprendimi=私を撮って、Il Divo、Sonetaulaの3本だった。そして、間に来日した俳優や監督による座談会が行われた。
座談会は、毎年のことなのだが、時間切れで、質問の時間も少なく、かなり欲求不満が残るものだった。

それはまあいいとして、昨日見た映画について書いておく。

原題Riprendimi、邦題は、私を撮って
非正規雇用の仕事しかないカップルの結婚生活を描くドキュメンタリーを撮る二人の売れない映画人の話。
カップルの女性は、3ヶ月ごとの更新で映像編集の仕事をするいわゆる派遣労働者で、男性は、何の役でもこなす売れない俳優。
このカップルが結婚し子供ができるのだが、その不安定な二人の生活を描くことで、非正規雇用のもたらす問題を映画こうとする売れないドキュメンタリー映画作家二人が、常に彼らの生活を撮りつづけている。
しかし、そこに描き出されるのは、男と女の恋と愛の駆け引きであり、愛することあるいは愛されないことによる心の寂しさだ。
映画の中で映画を撮るという入り組んだ構造で、ドキュメンタリーを撮られている主人公たちを追うドキュメンタリー作家たちもまた撮られていて、それを僕等観客が見ることになる。
監督はAnna Negri。舞台挨拶でちょっと話していたのは、自伝的要素があるそうで、この人を食ったような構成は、彼女がイタリアの有名なテレビ番組Blobを手がけていたからのようだ。

女性にやたらと手の早い、それでいてまったく自立できていない夢見がちの典型的なイタリア男と一人身の寂しさに耐えきれず、ついつい不倫の恋に落ちてしまうイタリア女っていうありがちな話を絡めながら、シングルで子供を育てようとするたくましい女性と、その女性を優しく見守るフェミニストの男っていう関係も描き出している。

女性監督であるからこそ描けた女の心情と、どうしてこんな男を許しちゃうんだろうってイタリア女性のマンマの感性が、交錯しているように思われる作品だった。

この作品、カップルで見て、それぞれの感想を戦わせるとおもしろいかも、、、、
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2009年01月31日

チェ 39歳 別れの手紙

今日から一般公開になった、チェの映画、第二部「チェ 39歳 別れの手紙」を見てきた。
たまたま今日が休みだったので、朝一番の上映に出かけたのだが、土曜日にもかかわらず、シネマコンプレックスの座席には、10人ほどの観客しかいなかった。

この映画のサブタイトル(日本語のだけど、、、)になっている別れの手紙とは、ゲバラがキューバを去るにあったて、カストロに宛てた手紙のことだ。
ゲバラがなぜキューバを去ったのかについては、様々な憶測があり、この別れの手紙の公表のされ方にも、カストロによって政治的に利用されたという話もある。

映画の冒頭で、カストロがこの手紙を公開した時の映像が流れる。残念なことに、それは全文ではなく、映画的に処理されているのだが、重要な部分が欠落している。

手紙の後半にしたためられた、有名なフレーズ
luchar contra el imperialismo dondequiera que esté=帝国主義があるところならどこであろうと闘うぞ
って部分も割愛されていた。
もっとも、アメリカ映画なんで、致し方ないのかもしれないけれど、、、、

映画の内容は、ゲバラのボリビアでも日々を、淡々と描いている。これはゲバラが亡くなる前々日まで書いていた、いわゆる「ボリビア日記」を元にしているらしい。

時代も状況も違う現在から、当時の彼の行動をああだこうだと語るのは間違っていると思うのだが、映画でも描かれているように、明らかに彼は状況を読み間違えていたんだろう。
ただ、もう少し、当時の政治状況やラテンアメリカの置かれていた状況を伝えてくれたらいいのになってことは思った。

まあ、政治的な映画ではなく、あくまでもエンタテイメントの映画なんで、この映画にメッセージ性を求めても、これまた致し方ないかな、、、、

ゲバラが殺されたのが1967年10月9日。そしてその翌年の1968年には、世界的な学生運動の波が押し寄せている。
ヒッピー、ウッドストック、フラワームーブメント、ベトナム反戦、、、時代は大きく変わっていく。

それから40年。当時の怒れる若者たちも、もういい年だ。
この映画に懐かしさを感じている人も、きっと多いんだろう。

だが、今の世界を見渡すと、ゲバラや68年の学生運動が理想とした世界とは、大きくかけ離れているように思う。

当時のワクワクするような高揚感や世の中を変えることができると信じることの出来た、理想や夢を持てた時代は、幸せだったのかもしれない。

政治家は政治屋になり、社会への貢献を倫理観としてもっていたはずの企業は金儲けへと走り、労働者は、労働運動を忘れ、社会問題や政治問題を扱い、権力の監視を標榜していたはずのマスコミは、バラエティーとお笑いを提供するメディアへと成り下がってしまった。

ゲバラのように強固な意志を持ち、世界を見渡して、人間の本来あるべき姿を理想として掲げることのできる人が必要なのかもしれない。ただ、これも一歩間違えば、独裁者になってしまうのだけれど、、、、、

まずは、一人一人が自分の頭で考えるってことが、重要なんだろう。

僕の頭の隅で、ずっと離れないのは、実はサパティスタの動きだったりするんだけれど、、、、
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2009年01月16日

タンタン80歳

2年前に、エルジェ生誕百年って記事を書いたんだけど、その彼が作り出したキャラクター、タンタンが、今年で80歳になるんだそうだ。
1929年1月10日に、初めてタンタンが登場しているんだそうだ。
1930年とする記事もあったりしたけど、オフィシャルサイトには1929年ってあるので、そっちの方が正しそう。
http://www.tintin.co.jp/

数年前から、スピルバーグがタンタンの映画化をするって話も出ているようなのだが、紆余曲折の末、どうやら本格化しそうだ。

映画化の話が出てきたのは、2004年のことらしい。こんなブログがあった。
http://blog.livedoor.jp/sawamur/archives/8692723.html
で、昨年の春、主役が決まったんだけど、
http://eiga.com/buzz/20080324/3
ユニバーサルが撤退
http://www.afpbb.com/article/entertainment/movie/2520084/3363628
主役も白紙に戻ってしまったらしい。
昨年の11月、パラマウントとソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントが共同出資することになり、話がようやく動きだしたみたいだ。
http://supi.wablog.com/906.html
そして、今年になってこんなニュースが流れた。
http://cinematoday.jp/page/N0016478

いろんな話があって、詳細は不明なんだけど、三部作として予定されていたものが二部作になるかもしれないってことと、モーションキャプチャーで作るってことらしいので、もしかしたら実写じゃなくて、CGアニメになる可能性もあるようだ。
ただ、アニメは既に製作されているから、実写版の方が面白いと思うんだけど、、、
公開は2010年予定ってことなので、まだ先だけど、完成したらちょっと見てみたいな。
posted by tady at 14:51| ローマ 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

チェ 28歳の革命

去年から話題になっていたチェ・ゲバラの映画の第一部が、1月10日から日本でも公開になっていて、今日、ようやく見てきた。
ごく一部のアメリカ人ジャーナリストのインタビューシーンを除いて、全編スペイン語で、アメリカ映画としては、いい感じ。
キューバなまりやアルゼンチンなまりもきちんと表現されている。
以前、レコードで、カストロが、ゲバラの別れの手紙を読み上げている声を聞いたことがあるんだが、カストロ役をやったデミアン・ビチルの話し方や声の質は、まさに若き日のカストロの声にそっくり。
僕がゲバラ日記の邦訳を初めて読んだのは、たしか中学生のころで、意味も分からず、必死になって読んだ記憶がある。

上映に先だって、ゲバラについての簡単な紹介があるのだが、この作品の意味を理解するには、あらかじめキューバ革命についてや、ゲバラの著作などを読んでないと厳しいかも、、、
平日の、それも朝一番の上映ということもあって、シネマコンプレックスの一番大きな劇場での上映だったのだが、観客は10人足らずだった。

最後に流れてきたのが、昔よく聞いていたシルビオ・ロドリゲスのFusil contra Fusilだった。懐かしくて、つい口ずさんでしまったw
Youtubeにもあったのでどうぞ
http://jp.youtube.com/watch?v=yEWO3lR99QQ

プログラムも買ってしまったんだけど、その中のソンダーバーグ監督へのインタビューの中に、「ある文化圏に言って、その文化圏の言葉で映画を作る時代に我々は突入しつつあると僕は信じたいし、特定の文化的帝国主義の時代は終わったと思いたい」って言葉が印象的だった。

1月31日からは、第二部の公開が始まる。これも楽しみだ。
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2008年11月17日

il vento fa il suo giro

イタリアの友人から送ってもらったDVDのうちのひとつ、il vento fa il suo giroを見終わった。
時間がなくて、切れ切れに見ることになってしまったのだが、なかなかいい映画だった。
もちろん、日本では未公開の作品で、友人の好みで選んでくれた作品なのだが、この作品、イタリアでもきちんとした形では公開されていないようだ。
監督はGiorgio Diritti。主演はThierry Toscanで、彼と彼の妻役であるAlessandra Agostiを除いて、すべて映画の舞台となった村の人々が演じているという。
製作されたのは2005年で、数々の映画祭で賞を受賞しているのだが、イタリアで公開されたのは、今年になってからで、それもインディーズ系の映画館で、短期間だけ上映されたようだ。
いい映画が、配給されないって問題は、イタリアにもあるようだ。

ストーリーは、イタリア北部の寒村に、フランスから移住してきた山羊飼いの一家と、そこの住民との関係を描いたものだ。
ピレネーで、山羊飼いを営んでいた主人公Philippe Héraudは、ピレネーに原発が建設されることに不安を抱き、新しい土地を探して、イタリア北部の寒村Chersognoにやってくる。
過疎化が進む村では、村人による様々な議論の末、この新しい住人を受けいることにする。
ところが、いざ生活を始めてみると、地元住民とフランスからやってきた彼らとの間で、様々な軋轢が生じてくる。結局、Philippeの一家は、村を出て行ってしまう。
描き出される自然は、実に美しく、その中で繰り広げられる人間の善と悪のドラマを淡々と描いていく内容は、まさにイタリア映画って感じだった。

Chersognoという村自体は存在しない村なのだが、舞台となったのは、Cuneoのvalli occitane地区で、映画で話される言葉は、この地方の方言であるoccitana=オック語とイタリア語、フランス語である。イタリア語以外は字幕があった。DVDのいいところで、全編イタリア語字幕で見ることもできて、フランス語やオック語のところを理解するのに便利だった。
オック語についてはここ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E8%AA%9E

公式サイトは
http://www.ilventofailsuogiro.com/
で、イタリア語版wikipediaにもこの映画の項目があった。
http://it.wikipedia.org/wiki/Il_vento_fa_il_suo_giro

閉鎖された社会における排他性っていうのは、どこの国でも同じなんだなぁーと思ったし、そういった排他性を自覚して出演している地元の人たちの迫真の演技には、圧倒される。
日本で公開されることはまずないと思うけど、いい映画なので、機会があったらご覧あれ。
posted by tady at 21:35| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月11日

Caos Calmo

Caos Calmoをようやく見ることができた。
Sandro Veronesi原作の小説で、Nanni Moretti主演で映画化され、イタリアでは今年の2月に公開されている。日本ではまだ未公開の作品だ。
先日、イタリア人の友人から小包が届き、その中に、以前より依頼していたDVDが入っていたのだ。
一気に見る時間がなくて、ここ数日、少しずつ見ていたのだが、ようやく最後まで見ることができた。
映画はかなり原作に忠実であったが、小説にある深みはあまり感じられなかった。2時間弱という制約の中で映像化したわけだから仕方ないのかもしれない。
Nannni Morettiというとコメディというイメージがあったのだが(「息子の部屋」はそうじゃなかったけど、、、)、監督としてではなく、役者として出演している彼の演技は、なかなかのものだった(もっとも脚本には一枚噛んでいるようだが、、、)。彼が泣くシーンって始めてみたかも、、、
また、公開前から話題となっていた、ベッドシーン(というよりもソファーシーンだったけど、、、)も、へぇーって感じでありました。
DVDなので、イタリア語字幕が表示でき、イタリア語を聞きながらイタリア語の字幕を読むというのは、かなり勉強になった。また、会話の内容と字幕が微妙に違っていて、字幕が文語体に近かったりするのも興味深かった。
現代イタリアを描いた作品なので、イタリアの今の生活も垣間見れて、これもまた面白かった。
確か小説では、ミラノが主な舞台だったのだが、映画ではローマになっていたようだ。
話題先行の映画で、公開後結局ベルリン映画祭とかでも賞を取ることはなかったのだけれど、そこそこ楽しめた。
日本で公開されることはなんだろうな、、、
posted by tady at 22:21| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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