2006年06月27日

ベル・パエゼ8

唐突に8回目
2ヶ月に1度くらいのシリーズになってますね。
昔話のカテゴリは、ネタが無くなった時の引出しのつもりで設定して書いていたのだけれど、昔のことを思い出すってことでも、また、思い出したことをきちんと自分の中で消化して文字にするって意味でも、結構大変で、ネタが無い時の埋め草として書くという訳にはいかなくなっています。
前回の掲載は、4月20日でした。
当時、留学していた団体が行った語学キャンプに行ったところからです。

同じキャンプに、メキシコで世話になったメキシコ人が、スタッフ・エクスチェンジ(各国にある加盟団体のスタッフ間の交流のための交換留学のことを指します)として来ていた。
彼は、僕のイタリア語を聞いて、「イタニョール」だねと笑っていた。イタリア語とエスパニョール=スペイン語が混ざっているってこと。
イタリア語とスペイン語の語尾変化の違いに戸惑ったのもさることながら、同じような言葉なんだけど、微妙に違うってことに多いに戸惑っていた。
例えば、
世界という単語は、
スペイン語ではmundo
イタリア語ではmondo
同じように
土地は、
スペイン語ではtierra
イタリア語ではterra
運動は、
スペイン語ではmovimiento
イタリア語ではmovimento
このように、微妙にスペルが違う=発音も違う言葉がたくさん。
さらに
駅は、
スペイン語では、estacio'n
イタリア語では、stazio'ne
学校は、
スペイン語では、escuela
イタリア語では、scuola
なんていうのもあって、似て非なるものも多数。
さらに、聞いていると同じように聞こえるんだけど、書かれた文字を見ると大いに違う。
例えば、とってもよく使う関係代名詞
英語のwhatにあたるのが
スペイン語ではque
イタリア語ではche
でも両方とも発音はケ
英語のwhenにあたるは
スペイン語はcuando
イタリア語はquando
でも両方とも発音はクアンド
また、スペイン語はgとjが独特なんだけど、イタリア語は普通
人って単語は
スペイン語はgente
イタリア語はgente
綴りは同じでも
スペイン語の発音はヘンテ
イタリア語の発音はジェンテ
日本のことは
スペイン語はJapon=ハポン
イタリア語はGiappone=ジャッポーネ

これだけ似て非なる言語の中にいると、もう頭はごちゃごちゃ、口を付いて出るのはイタニョールになってしまう訳。たぶん、日本語も少しは混じってたはずなんで、そりゃーもー大変!
それでも、伝えたいという意志さえあれば伝わってしまうのが面白いところ。めちゃくちゃ言語でも、文法なんか大間違いでも、コミュニケートしたいっていう思いがあれば、言葉は通じるものなんだと日々実感していた。
これは、僕が言葉に接するときの原点となっている。言葉はコミュニケートするための道具であって、一番重要なのは伝えること。もちろん、よりよく伝えるために、文法や語彙が必要となるのは当然なんだけけどね。自分の感情とか、形而上学的難しい話を伝えるためには、文法や語彙も必要不可欠になってくる。でも、それは、まず最初に思いを伝えることで培われる人間関係が密になるに従って、学んで行けると思っている。
もっとも良い例が恋愛だと思う。まあ、僕の場合は、そういう状況は全く無かったんだけどねorz。
posted by tady at 22:51| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月20日

ベル・パエゼ7

この間、ベル・パエゼ6で書いた、あの4歳だった女の子からメールが来た。もうすぐ卒論が完成するので、大学を卒業するということだった。卒論のテーマは「能」だそうだ。数えてみれば彼女も27歳になっている。4歳で日本人と出会って、2年間を一緒に過ごした影響で、大学で選んだものが東洋演劇であり、卒論が「能」になったのかもしれないと思うと、なんだかちょっと怖いような申し訳ないような、彼女の人生にとてつもない影響を与えてしまったのかもしれないと改めて考えてしまった。そして僕は、僕でイタリアの2年間で、やっぱりもの凄い影響を受けていたりする。
そして、つい数週間前に、久しぶりに僕がイタリアに行った時に世話をしてくれた留学団体の合宿に顔を出した。これから海外で1年間を過ごそうという人たちのオリエンテーション・カンファレンスの第1回目だったのだ。
初々しい若者達と会って、とても新鮮だったし、僕がメキシコやイタリアに行っていた当時のことを思い出してしまった。
もともとちょっと変わった留学団体で、普通の留学では行けないような、マイナーな国との間で交換留学をしている。その時も、帰国生がボランティアで手伝いに来ていたのだけれど、フィンランド帰りの人が何人もいた。日本の中で、フィンランドで1年過ごして、フィンランド語を話せる人の人口って言うのがどれくらいかはわからないけれど、その場では、その人口比率は異様に高かったわけだ。
同様にラテンアメリカ帰りも何人もいた。
僕の関わっていた時代とはだいぶ様変わりしては居ても、異文化と出会うことで、自らが変わっていくという経験を持った人たちと過ごすのは、面白かったし心地よかった。
そして、現在は、多くのアフリカの国々との交換留学も盛んになっているようで、これからケニアに行くことになっている人もいた。先月、その団体の国際オフィスの事務局長(現在加盟国は35カ国とかで、それを取り仕切っているのがベルリンにある国際オフィスになっている)が来日して、話をしてくれた。まあ、事務局長っていっても、僕の昔からの友人で、3年ぶりくらいに会ったので、彼の来日初日は、寿司を摘みながら、知り合いは元気?ってな感じの話をしたわけだけど、公式のミーティングの時には、きちんと仕事モードで、現在ユネスコに公認されている留学団体の中では、アフリカの加盟国が最も多い団体になってるんだそうだ。
このブログでは、宣伝みたいなことは基本的にしたくないし、今までもしてこなかったのだけれど、その団体の今年の派遣生枠がまだ埋まっていないそうで、今、一生懸命リクルートをしているとのこと、興味のある人がいたら、お気に入りリンクの中にあるICYEってリンクをクリックしてみてください。
ってことで、宣伝はお終い。改めて、イタリアに行ったばかりの時をまたまた思い出したので、ベル・パエゼの続きを書こうと思います。

ベル・パエゼ6からの続きだよ

ホームステイ先の家族は、ヴァカンスに。そして僕はマントバ近郊の小さな町で行われた語学キャンプに行くことになった。
世界各地からやってきた交換留学生が一同に介して、その町が提供してくれた夏休み中の学校を使っての1ヶ月ほどのキャンプだった。いわゆる草の根レベルでの国際交流ってことで、小さな町がいろんな国の若者達を受け入れてたわけだ。ただ、僕ら留学生達は、町の美化とか公園の施設作りのお手伝いとかをボランティアでやることが条件で、日中の何時間かは肉体労働。そして、後の時間は、ボランティアスタッフのイタリア人たちから語学のレッスンを受けた。
僕はメキシコに1年いたから、イタリア語はなんとなく理解できたのだけれど、それでも最初は非常に戸惑った。何が一番戸惑ったかというと、単数形と複数形。日本で習う最初の外国が英語だから、単数形と複数形の違いは後ろにSが付くか付かないかってことで区別する。スペイン語も同様で、複数形は語尾にSが付いた。だから、僕にしてみれば、イタリア語のように、単数形と複数形で、語尾が変化するって言語は全くの初めてで、とってもビックリ!頭が大混乱! なんで? なんで?って感じだった。
少しだけ例を挙げておきます。
男の子 男の子達
boy boys 
女の子 女の子達
girl girls
ここまではOKですね。
でスペイン語では
chico chicos
chica chicas
ところがイタリア語では
ragazzo ragazzi
ragazza ragazze
となるのです。
なんでragazzosにならんのか? ってことで、訳がわからなかった訳です。
つーことで、ちょいとしばらく、ベル・パエゼの話は、夏の語学キャンプがらみの言葉の話で行こうかと思ってます。
posted by tady at 23:48| ローマ ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

ベル・パエゼ6

ホーム・ステイすることになった家は、ローマの街中にあるものの、いわゆる庶民の人たちが多く住んでいるところで、決して大きな家ではなかった。僕がステイすることで、4歳の女の子は、自分の部屋を取られてしまって、ソファーで寝ることになった。
すぐそばには、大きな市場があって、毎朝多くの店が立ち、活気にあふれていた。

イタリアに到着した初日の晩、留学団体のスタッフが、夜の街に、ビールを飲みに連れて行ってくれた。一番最初に覚えた単語は、ビヤホール=ビレッリア=Birreriaだったと思う。(これは後日談だが、そのお店にもう一度行ってみたいと思って探したのだが、結局見つけることは出来なかった)。
日本では、グイグイと飲むビールを、みんなチビリチビリと飲んでいたのが印象的だった。
イタリアでは、ワインは水みたいなもので、実際、ミネラルウォーターとハウスワインの価格は、ワインの方が安いくらいだ。やはりワインの国である。
それに比べてビールはやや高い。当時の若者たちは、折角夜外出するなら、ちょっと高めのビールを飲みたいって雰囲気があったのではないかと、今振り返って見て、思う。だからチビチビ。

帰りは、車で送ってくれるというので、ステイする家のすぐそばまで来たところで、ここでいいというと、危ないから、家の前まで送るという。そしてきちんと建物の玄関のドアを開けて、その中に入るまで見送ってくれた。やはりローマはいろいろとヤバイ町なのかもしれないと実感。
もっとも、ローマに生活に慣れてくると、よく、一人で映画を見に行ったり、コンサートに行ったりと、夜で歩くようになったが、それは言葉が出来、状況判断が出来るようになってからのことだ。
さて、ステイ先の家には、すぐに、語学研修のためのキャンプに行くことになっていて、最初はわずか数日の滞在だった。それでも、一般的なイタリア人にとっては、バカンスシーズンだったわけで、わざわざ僕のために、バカンスに行くのを遅らせてくれていたらしい。
スペイン語は分かったものの、イタリア語はチンプンカンプン。朝起きると、なにやら夫婦喧嘩をしている様子。遠慮しながら部屋を出る。また、そのころ、ご飯のメニューが僕だけ違っていた。なんとなく居づらくなってしまう。
ところが、これは大きな勘違いだったことが後から分かる。
夫婦喧嘩だと思ったのは、単なる普通の日常会話。メニューが違ったのは、家族は残り物を食べていたのに、僕にはきちんと作ってくれていたから。
今だから、笑い話になるのだが、異文化との出会いってこんなものなのかもしれないと思う。
数日後、僕は、語学研修キャンプに参加するためにマントバ近郊の村へと向かい、家族はバカンスへと出かけた。
posted by tady at 18:25| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月04日

ベル・パエゼ5

唐突に、ベル・パエゼの続きです。
前回を書いてから、3ヶ月も経っちゃいました。

さて、いよいよ僕を受け入れてくれるホストファミリーとのご対面となりました。
留学団体の事務所から、ホストファミリーが待っているという場所まで車で移動。
ローマ市内の端から端への移動って感じでした。
目的の場所に到着し、車から降りると、向こうから女の子が走ってきました。女の子って言っても、小さい女の子ね。
今でも鮮明に記憶にある出会いの瞬間でした。
僕を受け入れてくれる家族の一人娘が彼女でした。当時4歳。今では、20台後半の妙齢の女性となっています。僕にとっては娘か妹って感じです。
もともとホストファミリーの希望としては、ベビーシッターのような役割ができ、英語の話せる女性っていうのが希望だったそうです。
そこにやってきたのは、英語も話せない東洋人の男だったわけで、ほんと、よく受け入れてくれたと今でも感謝しています。
このホストファミリーとの関係は、これから書いていこうと思う、このベル・パエゼの根幹を成すものです。
僕のイタリア経験の多くをこの家族に負っているところがあります。現在は、ホストのご夫婦が離婚してしまったこともあり、家族とは言えないのだけれど、でも、僕にとってはとっても大切な「家族」であります。
イタリアの諸々の話は、徐々に書いていこうと思っています。
長期不定期連載だと思ってお付き合いください。
posted by tady at 20:16| ローマ 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月10日

ベル・パエゼ4

1983年夏。イタリアへ旅立ったのは良いのだけれど、乗った飛行機はPKだった。PKはパキスタン航空の略ね。南回りの各駅停車って感じのフライトで、ローマに付くまでに、確か36時間くらいかかったと思う。
メキシコに行った時も大変だったけど、この時も大変だった。
話のついでに脱線することを承知で、メキシコ行きのことも書いておきます。
1980年にメキシコに行った時は、直行便はなく(IATAの契約の問題だったみたいだけど)、日本からロサンジェルスに行って、そこで乗り換えてメキシコシティーに向かった。ところが日本→ロサンジェルス間のフライトが遅れて、乗った時から乗り換え便に間に合わないことがわかっていた。初めての海外旅行で、乗り継ぎ便に乗り遅れ、ロスの現地で乗り継ぎの交渉をするハメになった。
メキシコは、アメリカから見れば外国のはずで、ロスに着いた時、インターナショナルのフライトを一生懸命探したのだが、該当するものは全然無い。周りの人に聞いてみると、メキシコへのフライトは国内便扱いで、国際空港ではなく、国内空港での発着になっているという。この時、メキシコはアメリカにとって植民地扱いなんだって思いましたね。
1年間の留学のためにいろいろと詰め込んだ重い荷物を抱えて、広い飛行場内を国内便発着所に向けて歩き出した。
どうにか拙い英語で交渉して、メキシコシティ行きの便に乗ることが出来た。でも、その便が到着するのは、真夜中。かなりの不安を持ちつつ、ベニト・ファーレス国際空港に着くと、現地のスタッフがバラを1輪持って待っていてくれた。今でもその情景は鮮明に覚えている。

じゃあイタリア行きはどうなったかというと、延々と各駅停車の旅を続けて(飛行機なのに変だけど、実感はまさにそうだった)、ローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に着くと、そこでもやはり現地スタッフが待っていてくれた。
なんだかんだ言って、恵まれてはいたんですね。
それにしても、メキシコにしろイタリアにしろ、有名人(といって差し障りがあるなら歴史上の人物の名前が)、飛行場に冠されているわけですね。
それに比べて、日本のセンスの無さは、ほんと嫌になります。セントレア国際空港っていったいなんなの?って感じですね。
坂本龍馬国際空港とか、吉田松陰国際空港とかあっても良いのではって思っちゃいます。小泉純一郎空港とか、裕仁空港ってのはちょっと嫌だけど、、、、

イタリアで出迎えてくれたのは、スイス人の男の子で、徴兵の変わりに社会奉仕をすることを望んで、イタリアでボランティア活動をしていた人で、彼自身も、ICYEでイタリアに1年間留学した経験がある人だった。
彼の運転する車で事務所に向かったのだが、彼の個人的な用事で、途中彼の家に立ち寄った。ところが、ドアが破られて泥棒が入っていたのだ。僕はビックリしたのだが、イタリアでは普通のことらしく、彼は動揺も見せず、またやられたかって感じで、冷静だったのが印象的。イタリアに着いた早々大変な洗礼を受けたわけだ。
イタリアにおけるカルチャーショックの第一弾って感じだった。
今思い出して不思議なのは、メキシコではほとんどカルチャーショックっていうのは受けなかった。僕にとっても初めての外国ではあったのだけれど、たとえ日本から見て地球の反対側にある国であろうと、そこに人々が生きているのなら、行けばどうにかなるって気持ちが強くて、なんでもあるがままを受け入れる姿勢で過ごしていたからかもしれない。だからこそ、メキシコでの滞在を終えて日本に帰ってきた時は、カウンターカルチャーショックがもの凄くあった。僕自身の価値観がある意味根底から覆ってしまったのがメキシコでの1年間の滞在だったのかもしれない。
それに比べると、イタリアに対しては、一応ヨーロッパの国だし、海外経験も経ているので、何となく余裕というか、心が弛緩していたというか、ハングリー精神に欠けていたというか、そんな心持ちで居たので、逆にかなりのカルチャーショックを受けることになった。
posted by tady at 21:45| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月09日

ベル・パエゼ3

僕にとって、本格的なイタリアとの関わりが始まるのは、1983年になってからのことだった。
1980年代初頭、ヨーロッパでは、NATO軍への巡航ミサイルとパーシングUの配備に反対する平和運動が大変な盛り上がりを見せていた。
僕がメキシコに行った際にお世話になった留学団体は、それを見て、新しいプログラムを企画しつつあった。
どんな留学団体なのか、曖昧にしておくのもあまりよろしくないと思うし、きちんとユネスコにもにも認められている団体なんで、ここで説明しておく。
略称はICYEで、僕が関わり始めた頃は、International Christian Youth Exchangeの略だったのだが、現在は、CがCulturalのCに変わっている。
そもそも、この団体が誕生したのは、第二次世界大戦後に、アメリカのプロテスタント系のクリスチャン達が、ナチスを経験したドイツ人にアメリカの草の根民主主義を教え込もうということから、青年の交流を促す留学始めたことによるそうだ。
しかし、1968年の世界的な若者の反乱の洗礼を受け、第三世界の人たちとの交流へとシフトしていったと聞いている。
僕がメキシコに行った頃には、既に多くの第三世界の国々が参加しており、参加資格も別にクリスチャンである必要はなくなっていた。僕自身キリスト教を信じているわけではありません。参加するためには、往復の旅費と参加費を支払う。スポンサーが居るわけではないので、全て参加者負担だった。
国際交流が今ほど盛んではなかった頃から、若者達を1年間海外へ派遣し、ボランティアを中心とした活動に参加するというプログラムを実施してきた。本当に小さな民間団体でだから、資金面での苦労や留学プログラムといいつつも、きちんとしたケアが出来ないなどの問題を抱えている参加国もあった。しかしその反面、参加した留学生の自由度は高く、本当の意味で、派遣された国の人たちとの交流が出来ていたと思う。まあ、ぶっちゃけた話、初めて行く国でどうサバイバルするかって感じではあった。僕自身そうでだったから、、、でも、だからこそ、現地の人との関わりが密になったということは確かだ。参加してから、もうかなりの年数が経ってしまったので、現在の状況は、詳しくは知らない。
興味のある人が居たら、日本委員会のHPはここ。国際事務局のHPはここです。
今は、個人でも1年間くらい留学することは出来るし、第三世界へ行くこともそれほど難しくはなくなってきている。また、他にもたくさんのボランティア団体がある。ましてや自分でお金を払って参加しなくても、スポンサー付の団体もあると思うので、あえてこの団体で留学することもないと思うけれど、世界的に見て、かなりユニークな団体であることは確かだと思う。

話がわき道に逸れてしまった。
この団体が企画していた新しいプログラムとは、平和運動団体のメンバーの交換留学というものだった。そのプログラムを実施するにあたり、参加各国へアンケート調査を行ったのだが、参加国の中にはラテンアメリカの国もあり、その取りまとめを行っていたメンバーからスペイン語の翻訳を頼まれた。僕自身は、メキシコに帰りたいと思っていたので、まさか自分が参加することになろうとは思いもせず、その作業を手伝った。
いざ、そのプログラムを実施する段になって、日本からの応募者が居ないという。そこで僕に白羽の矢が立ってしまった。それならばと、僕はドイツ行きを希望した。メキシコに行ったので、ラテン語を基礎とするロマンス語はどうにかなるだろう。アングロサクソン系の英語はどうにかなる。後はゲルマン系の言葉を学ぼうと思ったのだ。ここで、すっぽりアジアの言語が抜け落ちているのは、今から振り返って見れば、我ながらお恥ずかしい次第だ。
ところが、ドイツに行きたいと言う人が出てきて、「スペイン語のわかるお前は、イタリア語なら近いから、直ぐに役立つし、プログラムの主旨から言っても、その方が良い」ってことで、急遽イタリアに行くことになってしまった。
1983年初夏、僕はイタリアへと旅立った。
これから書いていくであろうことは、僕個人の経験に基づくものではあるのだけれど、個人の経験談を延々と書いていっても読んでいる人はつまらないと思う。できるだけ、当時の政治状況や世相を伝えるようにしようと思っている。
posted by tady at 21:11| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月07日

ベル・パエゼ2

僕が初めてイタリアに行ったのは、1981年の冬のことである。ある民間の留学団体でメキシコに1年間留学していたのだが、その留学プログラムに参加していた、様々な国の若者(当時は僕も若かった)たちと友人になった。8月に1年間のプログラムが終了し、メキシコから、みなそれぞれ母国へと帰っていったわけだが、別れる時に、その年のクリスマスをイタリアでみんなで祝おうという話になった。
大半の参加者はヨーロッパ大陸からで、例外は日本の僕とアメリカの女の子。ヨーロッパ組は、国が近いこともあり、多くの連中が参加を表明していた。しかし、まさか日本からは無理だろうとみなは思っていたようだ。
僕は、彼らに再会したいという思いの他に、もう一つ強い動機付けがあり、夏に日本に帰国してから、必死でバイトをして、ヨーロッパ行きのお金を工面した。その動機については、このブログのアーカイブを探すと見つかるはず。ちょいと照れくさいので、ここでは書かない。
僕が最初に降りたのは、スイスだった。そこから、もう一つの理由で、まずはベルギーへ。そこである意味、初めてヨーロッパ文明に出会った。ブリュッセルのグランプラッツに立った時、「あーヨーロッパって石の文化なんだ!」と実感。でも、例の有名な「小便小僧」がとっても小さな像だったのは、かなり想像と違っていた。
ベルギーでいろいろあって、傷心のまま、イタリアへ。
みんなが集まったのは、ヴェネツィアにほど近い、ブレッシャという町。そこ出身のイタリア人の男の子がいたからだ。冬のヨーロッパはとっても寒かったけれど、そこでみんなと過ごした数日間は、とっても暖かい想い出として、今でも心に残っている。
いや、それにしても良く集まったなってくらい、ヨーロッパ各国からみんなやって来た。ヨーロッパだけでなく、メキシコから来た人もいたりした。彼らもそれなりの理由があったんだけどね。若い頃は、ほらね、熱い思いがあるもんでしょ? 男女間における、、、、
この時、僕は、ピアソラのレコードを携えていた。というのも、メキシコで一緒だったスイス人の女の子がピアソラが好きで、レコードを買ったのだが、メキシコに忘れていってしまったのだ。それを、僕が預かって、日本に持って帰り、そしてイタリアまで持っていったというわけ。
ピアソラなんて、当時の僕は全然知らなくて、日本に持って帰った時に、初めて聞いて、すっかり好きになってしまった。音楽とのこんな出会いもあるんですね。

ブレッシャの後は、ウーディネへ行った。そこにも多分、熱い思いを持った友人(日本人ね)がいたのです。
彼が居たところは、コムニタ(コミュニティー)と呼ばれるところで、障害者の人たちが共同生活をしている場所だった。
僕らが参加した団体のプログラムは、ボランティア活動をメインとするもので、メキシコの場合はDIF(デサロージョ・インテグラーレ・デラ・ファミーリア=家族統合発展)という先住民を支援する国の団体やINI(インスティツゥート・ナショナル・デ・インディヘニスタ=メキシコ先住民局)などでのボランティア活動だったし、イタリアの場合は、障害者の自立や麻薬中毒患者の更正などを目的とした、キリスト教系や革新系などの様々なコミュニティーでのボランティアがメインだった。
ウーディネでも数日間過ごしたのだけれど、今でも忘れられない記憶として残っているのは、作業場のシーンだ。そのコムニタでは、製本作業を請け負っていた。印刷された一枚一枚のページを順番に重ねていく。これを丁合というのだが、たまたま僕は、日本でやり方を習っていて、日本流のやり方で、効率よく作業できることを自慢げにやってしまった。作業を早く終わらせるための親切心から出たものではあるのだが、後でよーく考えてみると、車いすに乗った人には負担が多く、決して良いやり方ではなかったのだ。
僕が中退した大学は、障害者を率先して受け入れる大学で、在学中にも多くの障害者(とひとくくりにしてはいけないのだが)友人がいた。それなのに、全く考えが及ばず、日本的効率主義の先兵となってしまった自分があった。
今でも、その時のことを思い出すと、実に恥ずかしい思いに囚われる。

その後、僕は友人たちを訪ねて、スイス、オーストリア、ドイツなどを回り帰国した。
ヨーロッパの最初の訪問が、観光でもなく、また、最も寒い冬場って言うのも、あんまり一般的ではないかもしれない。そして、その時は、自分が再びヨーロッパ、それもイタリアを訪れるとは、思ってもいなかった。当時の僕は、メキシコに帰りたいって気持ちがとっても強かったから、、、
しかし、人生とはままならないものだ。だからこそ面白いんだけどね。
posted by tady at 20:24| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年11月04日

ベル・パエゼ1

日本の国のことを呼ぶときに、瑞穂の国とか日出国とかいう。言葉がまとう意味合いや雰囲気として、愛国とか国粋とかが連想されてしまう。
昔、アルゼンチンの女性歌手、ナチャ・ゲヴァラが歌う、「我が愛しのアルゼンチン」という歌を聴いたことがある。当時、軍事独裁政権に蹂躙されていた祖国を想い、美しき私の可哀想な国と歌う彼女の歌声が、本当に心に染みた。
この違いは何なのだろう?
かつて、自分たちの故郷を守るために、工場の排水溝に生コンを流し込み公害を実力で阻止した、高知生コン事件というのがあった。裁判にもなったが、その実力行使をした人たちのテーマソングは、「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」ではじまる「故郷」という歌だった。
政治や思想とは別のところで、人々は自分たちの住む国を大切にしたいと思っているのではないだろうか?
それを正面きっていっちゃってるのが、イタリアだ。イタリア人は、自らの国をベル・パエゼ(美しき国)と呼ぶ。
これからしばらく、この美しき国(醜いところもあるけれど)と僕との関わりを、昔話として書いていこうと思う。
僕が最初にイタリアを訪れてから、かれこれ25年になろうとしている。その間、イタリアに居たのは、トータルしても4年ほどでしかないのだが、メキシコに次いで、僕の人生にもっとも大きな影響を与えた国と言ってもいいと思う。(このブログを読んでいれば分かることですね)
「他人の昔話を聞いたって、しょうがないジャン」という声も聞こえてきそうだけれど、まあ、個人のブログなんで、読みたい人は読んでください。
今日は、前口上ってことで、、、、
posted by tady at 22:03| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月24日

メヒコ旅行編4

しばし、間が空きましたが、ベラクルスへの旅の続き。
北米大陸縦断の旅を続けるローラースケートと自転車の二人組を見送った後、僕は、長距離バスでベラクルスへと向かった。メキシコ湾岸のほぼ中央に位置するこの港町は、メキシコの歴史にとっても重要なところだし(征服者コルテスが上陸したのがこの地)、また、キューバにとっても重要な地(カストロやゲバラを乗せたグランマ号がキューバに向けて出発したのはベラクルス州のツクスパン)だったりする。
あと有名なのは、牡蠣とカーニバル。メキシコでは、結婚してベラクルスに新婚旅行に行くというと、頑張ってこいよと言われるそうだ。牡蠣をたくさん食べて、精力つけて頑張れよってことらしい。
元々、牡蠣は好きだったのだが、メキシコでは、肝炎になる虞もあるから生ものは食べるなと、周りから言われていて、一切食べていなかった。
ところが、バスが港へはいるゲートのところで、順番待ちをしている間、車窓から外を眺めていると、運転手たちが、ゲート脇に居る人に何かをオーダーしている。よく見ると、カクテルグラスに入った生牡蠣だった。ベラクルスはとっても暑く、よく冷やした生牡蠣を啜る人たちを見て、ついに我慢が出来なくなった。
バスが港に到着すると、早速、もうどうにでもなれ! って感じで、牡蠣を売っているお店に行って食べちゃった。それがまた、美味しいこと。メキシコでは、剥き身にした生牡蠣を、カクテルグラスに入れ、ケッチャップとタバスコをたっぷりとかけ、レモン汁を絞って、コリアンダーの刻んだものを載せていた。牡蠣の甘さと、ケチャップのこく、タバスコの辛さと、レモンの酸味、それにコリアンダーの独特の香りが、渾然一体となって、口の中に広がる。
これを書いてるだけで、よだれが出てきてしまった。
腹ごしらえが済んで、港を散策していると、地元の子供たちが、海で泳いでいて、観光客の投げ入れるて、沈んでいくコインを素潜りで潜っては、ゲットしていた。子供たちは、遊び半分、仕事半分って感じだったのだが、コインを投げ入れては、子供たちが潜るのを見て楽しんでいる白人たちを見て、なんだかいやな気分になった。
その日の宿は、本当に安宿で、窓もなく、冷房もなく、あったのは天井で回っている扇風機だけ、まるで蒸し風呂の中にいるような感じだった。
ベラクルスが発祥の地と言われている歌に「ラ・バンバ」があるが、この歌にまつわる面白い話もあるらしい。それについては、歌のところで書きます。
その後、一応の目的地であったベラクルスから、メキシコシティーに向けて帰路についた。
posted by tady at 17:05| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月09日

メヒコ旅行編3追記

訪問した原発がどうなったのかちょっと気になって、ネットで調べてみました。
独立行政法人科学技術振興機構が運営する原子力図書館の中に、メキシコの原子力発電所についてのページがありました。
僕は地名をラグーナス・ヴェルデスと複数形で記憶していたのだけれど、どうや正式な名前はラグーナ・ヴェルデが正しいようです。
1号機と2号機が稼働中ってことですが、その他にメキシコには原発はないとのことです。
posted by tady at 09:49| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月08日

メヒコ旅行編3

25年前、僕がプエブラからベラクルスに向かった大きな理由の一つが、当時メキシコで初めての原子力発電所の建設現場を見てみたいと言うことだった。
ベラクルスに近い、メキシコ湾岸沿いのラグーナス・ヴェルデスというところで、原発が建設中だったのだ。
バスを乗り継いで、どうにかラグーナス・ヴェルデスに着いたのだが、その日はちょうど土曜日だった。メキシコは結構いい加減なので、本来なら立ち入り出来ないような場所でも、頼み込めば入れてくれたりする。それを期待して、建設現場のゲートの所で、メキシコ人に中が見学できないかと聞いてみた。帰ってきた答えは、日本人がイッパイ働いているから、その人たちに聞いてみたらってことだった。
僕は、まさか日本人がいるとは思わなかったので、びっくり。ところがゲート前で待っていると、次々と日本人の乗った車が出てきた。それも、普段メキシコでは見ないような車ばかり。彼らはアメリカから来ているらしかった。その中の一人に声をかけ、中を見学させてくれないかと聞いたところ、今日は土曜日だからダメだと言われた。平日はずっと現場に缶詰状態で働いているようで、土曜日には、羽を伸ばしに町に繰り出すらしく、その貴重な自由時間を譲るわけにはいかないということらしい。
それにしても、こんな所で、日本人技術者が働いているとは思わなかった。
結局中に入れてもらえず、僕は宿を探さなければならない時間になっていた。途中バスで通過した村に、宿泊施設があったのを目にしていたので、とにかくそこに戻ろうと道路を歩き始めた。徒歩でどれくらいの時間がかかるかは分からないのだけれど、他に交通手段がないのだから仕方ない。
トボトボと歩き始めると、後ろからやって来たジープが止まった。運転していたメキシコ人はラグーナス・ヴェルデスで働いている人だった。「どこまで行くのか?」と聞かれたので、宿のあるところまでと答えると、じゃあ乗せて行ってやろうという。僕はありがたく彼の申し出に甘えて、車で送ってもらうことにした。
宿のある村には、二つの宿泊施設があったのを見ていたので、僕は安い方に泊まろうと考えながら歩いていたのだが、車に乗せてくれた人が、こっちの方が良いよと、そのうちの一つの宿の前で降ろしてくれた。
早速チェックインをすると、宿の人が「お前は日本人か?」と聞く。そうだと答えると、実は別の日本人が泊まっているという答えが帰ってきた。僕自身は、原発問題に元々興味があって、観光客など絶対来ないようなその地を訪れていたわけで、よもやそんな場所に日本人がいるとは思っていなかった。原発建設現場で働いている日本人たちは、そんな宿に泊まるわけはない。
驚いて、その日本人を訪ねてみると、二人組の人たちで、北米大陸をローラースケートで縦断する旅の途中だという。ローラースケートで走る人と、サポートとして自転車で伴走している人の二人組だったのだ。
ローラースケートで走っている人は、アメリカ建国200周年の時に、ローラースケートでアメリカを横断した人で、今回は北米大陸縦断中だということだった。
彼のアメリカ横断の旅は、後に吉田ルイ子監督による「ロングラン」という映画になっている。もちろんその時は、映画も存在せず、そんな人とは思いもしなかった。
ここで逢ったも何かの縁ってな具合で、その晩は、3人して大酒を飲んだ。
メキシコ人はビールを飲む時にもライムと塩で飲む。本来はテキーラを飲む時の作法なのだが、ライムと塩でビールを飲むと苦みが消えて美味しいのだという。日本でも、ちょっとしたお店でメキシコのコロナビールを頼むとライムが付いてくるけどね。ドイツに留学していたメキシコ人の友人は、折角のビールの美味しい苦みを消してしまうのは邪道だと言って憤慨していたが、確かに酸味と塩辛さでビールの苦みは消える。
辺鄙な海岸沿いの村だから、ビールは手に入っても、つまみが無かった。その時に彼ら言ったのは、ビールのつまみには、梅干しが良いってことだった。梅干しを食べながらビールを飲むとライムと塩と同じで、酸味と塩辛さでビールの味がまろやかになるというのだ。
そんな講釈話をしながら、大変な量のビールを飲んだことを覚えている。
翌日朝早く出発する予定だった彼らは、二日酔いで出発できず、急ぐ旅でもない僕も翌日はのんびり。結局二日酔いが治りかけた午後には、再びみんなで飲み始めていた。
さすがにその日は、大酒を控え、ほどほどで切り上げて就寝。
次の日の朝早く、彼らは北米大陸縦断の旅へと再び出発したのだった。
posted by tady at 21:59| ローマ ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月19日

メヒコ旅行編2

今、手元に1980年版の「地球の歩き方 アメリカ・カナダ・メキシコ編」がある。
当時から、地球の歩き方は日本人バックパッカーにとって、大変役に立つ本ではあったが、メキシコについては、本当に巻末にちょこっとだけしか出ていない。メキシコとして1冊の本にはなっていなかったのだ。現在のものと比べると、ほんと隔世の感がある。
僕がメヒコを旅行中に出会ったバックパッカーたちのバイブルのような旅行ガイドが「ラテンアメリカ・ハンドブック」だった。かなり分厚い本で、持ち歩くのは大変そうだったが、その詳細な情報には、ほんとうにびっくり。小さな小さな町まで、きちんと紹介してあった。残念ながら、僕自身は購入することが出来ず。旅行中一緒になった人たちから見せてもらって、自分が次に行く町の情報を仕入れたものだ。
旅行中に出会った様々な人の中には、名前までは覚えていないけど、忘れらない人たちが幾人もいる。ベラクルスへの旅でも、何人かいた。
まず思い出すのは、バハカリフォルニアから来たというメキシコ人の若者だ。バハカリフォルニアは、もちろんメキシコ領ではあるのだが、アメリカ人たちの高級リゾートでもあった。現在は日本人も結構言っているみたいだけど。
そこから来た彼の容貌は、まるでアメリカ人だった。詳しい事情は聞かなかったけれど、アメリカ人の血が流れていたのだと思う。
メキシコでは、外国人のことをグリンゴと呼ぶ。他のラテンアメリカの国では、外国人全てをグリンゴと呼ぶ場合もあるみたいだが、メキシコでは白人の外人をそう呼んでいた。日本人は対象外ってこと。この言葉の由来は、米墨戦争のころ、メキシコ人兵士が来ていた軍服が緑色で、米兵立ちがお前らあっちへ行けって意味で「グリーン・ゴー」と言ったのが始まりだと、ドル紙幣が緑色をしていて、米国資本は出ていけって意味で「グリーン・ゴー」というところから始まったとか、諸説ある。でも、いずれにしても、日本で外国人のことを「毛唐」なんて差別的に呼ぶのと同じで、蔑称である。
また色白の人のことをグエロなんて呼び方もある。
メキシコには、侵略者であるスペインの血をひく純粋な白人もわずかにいるけれど、その殆どが、先住民かメスティソと呼ばれる混血の人々だ。

そんな中で、顔はアメリカ人でありながら、メキシコ人であった彼は、旅行中にもよくグリンゴと呼ばれていた。まあ、日本人の僕と一緒にいたりしたから尚更かもしれない。でも、その度に彼の顔が曇る。とても陽気で、気さくな人だったけれど、彼の心の中の葛藤を思うと、なにやら僕もとっても複雑な気持ちになった。
この後であった忘れ得ぬ人は、次回。

そうそう、容貌ってことで言えば、男の僕がドキドキしてしまうほどのラテン系美男子が、たくさん居ましたね。ベラクルス周辺はいい男が多いのか知らん?
posted by tady at 10:30| ローマ ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月18日

メヒコ旅行編1

「メヒコの山の中の話」を読んだある友人から、「そんな昔のことを事細かに覚えているなんて、後ろ向きの人生を歩んでいるのではないか」と怒られたのですが、確かにそういうところはあるかもしれません。特にここのところ精神的にはあんまり良い状態じゃないかも、、、
しかしながら、大昔のことをこうして再確認しながら、綴っていくというのも、必要な作業かなとも思っています。
そんな、大昔のことなんて、面白くもないという方もいらっしゃるでしょうし、へーーそうだったんだと新たな発見をする方もいるかもしれない。
不特定多数の人に公開しているのがブログですから、どう受け止められるのかは、個々人違うと思います。
で、とりあえず、続きを書こうかなってことで、今回は、プエブラ州の山の中からベラクルスへの旅です。旅したのは25年前のこと。

プエブラ州から、メキシコ湾に向かいました。途中通過したのが、ポサ・リカという町です。豊かな井戸という意味ですが、このあたりは、石油が埋蔵されていて、道ばたのあちこちに標識が立っていました。
poza_rica01.jpg
牛が放牧されている脇に、「ペリグロ=危険」という看板。なんだろうとよく見ると
poza_rica02.jpg
地下に石油輸送管が通っているので、ここを掘り返したり、衝撃を与えたり、建造物を造るなってことでした。
メキシコ原油は、硫黄分が多く、あまり良質とは言えないと聞きましたが、この間見た、メキシコの新聞サイトでは、現在の原油高で、かなりの高値で取引されていると出ていました。

この旅行の後、カリブ海への旅もしたのですが、メキシコ湾で採掘されている石油のオイルボールが、ユカタン半島のカリブ海側に流れ着いて、綺麗な海岸を汚している場面に遭遇することになりました。

ポサ・リカを通過して、パパントラという町で、一泊しました。ここはバニラが有名な町で、町中にバニラの香りが漂っていました。僕は初めて、バニラが植物だと言うことを知ったのがこのまちでした。
マーケットで食べた、タコスがやたら美味しかったのを覚えています。
そして、翌日向かったのが、エル・タヒンという遺跡でした。
el_tajin.jpg
el_tajin02.jpg
この看板の脇に、注意書きがあって、遺跡の見学コースから離れないこと、藪の中にはいると、サソリや毒蛇がいるので注意と書いてあって、ちょっとビビリました。
パパントラやエル・タヒンは、トトナカ文化の中心だったところで、現在でも、ヴォラドーレスと呼ばれる。両足をロープで縛って、たかーい竿の周りを逆さまになってグルグル回るお祭りが有名です。残念ながら、この時は見ることが出来ませんでしたが。
posted by tady at 11:39| ローマ ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

メヒコの山の中の話 再訪編2

結婚式は、まず村の教会で行われました。新郎新婦は、いわゆる西欧風に正装をします。
花嫁さんはウェディングドレス。新郎は、黒いズボンに真っ白のシャツでした。
神父の前で結婚のミサが執り行われます。
boda03.jpg
村人たちは熱心なクリスチャンです。最初に訪れた時に、畑に行く道すがら、所々にキリスト教の聖人を祭った小さな建物(日本で言うとお稲荷さんや道祖神のような感じですね)があるのですが、休みの日になると、当番の人がその周りの草をむしったり、痛んだ部分を修復したりしていました。その時に聞いた話では、ほんの数年前(今からだと30年くらい前になるでしょうか?)までは、教会のミサはラテン語で行われていたそうです。
確かに、カトリックの歴史を見ると、第二ヴァチカン公会議が1962年から65年にかけて開催され、カトリック全体が大きく変化した時期から15年後くらいたった時点で、僕はその村を訪れていたわけで、カソリック教会の変化が、メキシコの山の中にも及んでいたことになります。

さて、教会での結婚式が終わると、宴会場へと移動。
boda02.jpg
花嫁さんは、民族衣装(ウィピル)に着替えてお色直しをし、新郎新婦は、立会人のもと、書類に署名をしていました。
boda01.jpg
見るからに特別のウィピルで、実に色鮮やかな刺繍が細かく施されていました。

その後は祝いの宴です。ほんとうにご馳走がたくさん。ついさっきまでそこらを走り回っていた鶏や七面鳥が、調理されて出てきました。肉は確かに固いんだけど、噛めば噛むほどうまみが口に広がっていく、とっても味わいの深い肉でした。

僕もさんざ、食べて飲んで、一休みと思って台所に行った時のことです。
そこには、その家のセニョールも居ました。かなり酔っぱらっていたんだけど、「息子さんの結婚おめでとうございます。」というと、「これもすべて神様のおかげです」と言うのでした。
スペイン語も片言しか分からず、ミサはつい最近までラテン語で行われていたというのに、一体何が、彼をそこまで信者にしたのか? 宗教とはなんなのだろう? と考えてしまいました。
でも、そんなセニョールだったからこそ、僕を受け入れてくれたのかもしれません。
そしてまた、その時初めて、セニョールから、頼み事をされました。「みんながこんなに祝ってくれているのに、私にはもうお金がない。無心をするようで悪いのだが、お前の金で、みんなに酒を振る舞ってやってくれないか?」というのです。もちろん、僕は、自分の出せる範囲でしかありませんでしたが、喜んで、お酒を買い、みんなに飲んでもらいました。
あれだけお世話になり、いろいろと迷惑をかけたのに、なんと謙虚で、温かい人なのだろうと、本当に、感激しました。
メヒコの山の中の話は、これでお終い。旅の話っていうのもあるのだけれど、それはまた、ネタ切れの時にでも、小出しに書いていくことにします。
ということで、、、
posted by tady at 17:44| ローマ 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月30日

メヒコの山の中の話 再訪編1

メキシコ滞在の期限(1年間のプログラムだったので)が迫ってきた頃。どうしても、もう一度ゲレロ州のあの村を訪れなければと思い。帰国前に再訪することにしました。
僕が居たのは、標高2600メートルの町。そこから、クエルナバカを通り、アカプルコで乗り換え、ゲレロ州まで行きました。アカプルコに着いて、空気を吸うと、そのまったりと濃いこと! 空気がズルズルと鼻の穴の中を通っていく感じで、思い切り息を吸わないと呼吸が出来ませんでした。
途中から小型トラックに乗り継ぎ、どうにか村に到着。早速世話になった農業技師の所へ挨拶へ行きました。そうしたら、前回お世話になった時に妊娠していたお連れ合いに、赤ちゃんが無事誕生していました。抱いてごらんと言われ、恐る恐る抱いたのがこの写真。
bebe.jpg
次いで、お世話になったセニョールの家に行くと、何と息子さんの結婚式があると言われました。
庭には、宴会用の特設会場が設営作業が進んでいました。
festa01.jpg
周りの森から切り出した木と枝で、小屋を造り、そして飾り付け。
festa02.jpg
その一方で、宴会料理の準備も進んでいました。
周りを走り回っている七面鳥や鶏をまず捕まえます。
cibo02.jpg
それを抑え込んで、喉をナイフで切り
turkey.jpg
さっとお湯に通して
turkey2.jpg
羽をむしります。
cibo01.jpg
取りきれない小さな羽毛は、焚き火にかざして、燃やしていました。

そしていよいよ結婚式です。その模様は、次回ね。
posted by tady at 22:23| ローマ | Comment(1) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月25日

メヒコの山の中の話 プエブラ編4

結局、先生たちのストが長引いてしまい、目途が立たないため、ちょうどその村に巡回してきた獣医さんが山を下りるの時に、一緒に山を下りることにしました。
車が入れる麓の村まで来ると、獣医さんは、もうひとつ仕事があるからということで、その仕事を見学。
放牧されている雄牛を捕まえて、去勢するところを見ました。
cowboy01.jpg
それは、まさにカウボーイの世界! 投げ縄で牛を捕まえ、ロープで引っ張って横倒しにします。馬に乗って、カウボーイハットをかぶっているのが獣医さんです。
cowboy02.jpg
そして、虚勢をすると、消毒薬を塗り、お終い。
肉牛にするためには、去勢しないと肉が固くなってしまうからだそうです。
仕事が終わると、村人たちが集まってきて、感謝の祝宴です。
10人くらい集まり、まず、一人が、全員に、ビール(日本の小瓶くらい)を全員に振る舞います。
それを飲み終わると次の人が、全員に振る舞う。その繰り返しで、一回りすると、10本のビールを飲むことになります。それでお終いかと思ったら、大間違い! 次は、ケース単位です。
一人が1ケースを振る舞います。小瓶だったから、多分2ダースはあったと思います。つまり、2本は飲まないといけないわけです。
1周すると、20本のビールを飲むことになります。宴が終わった時は、僕はもうベロベロ。車を運転するはずの、獣医さんもかなり酔っていたはず。僕はトラックの荷台に乗り込み、寝袋を抱えて、爆睡です。とはいっても、ものすごい山道。加えて酔っぱらい運転ですから、揺れること揺れること。夜道をどれくらい走ったのか覚えていませんが、僕はその後、ベラクルスを目指して旅をしようと思っていたので、バスの通る町に出たところで、降ろしてもらいました。
その時は、全く気が付かなかったのですが、トラックの荷台に積んであった、消毒用の薬の瓶が、割れて、僕の寝袋に付着していたのでした。
旅を続けるうちに、何やら背中が焼けるように痛くなるのです。どうしたのかと思ったら、寝袋に付着した薬液の水分が蒸発して濃縮され、それが皮膚を刺激していたのでした。
気が付いた時は、寝袋の内側の布はボロボロ。慌てて水洗いをして、穴の開いた部分を、たまたま持っていた端切れで繕いました。今でも、その寝袋は、想い出の品として、僕の手元にあります。
プエブラ編は、ここまで。次は、ゲレロ州の村を再訪した時に話です。
posted by tady at 19:32| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

メヒコの山の中の話 プエブラ編3

確か、参加したボランティアプログラムではこの村への滞在は、2週間だったと記憶してます。
しかし、学校で行うはずだったボランティア活動は、先生たちがストライキ中で、宙に浮いたまま。気候的にも雨期に入っていて、雨に降り込められて、小学校の宿泊所でボーっとした時間を過ごしていました。
村の人たちは、そんな僕らを気にかけていてくれたらしく、村が、政府から財政支援を受けて、取り組んでいるいくつかの事業の手伝いをしないかと持ちかけてくれました。
村が経済的に自立できるようにと、養蜂、羊の牧畜、コーヒーの栽培などが、行われていました。
現実的には、村人たちは、自分たちの生活に手一杯で、中々、これらの事業を進めることはできていないようでした。
下の写真は、養蜂のお手伝いをした時のもの。
ape01.jpg
ape02.jpg
コーヒー豆の収穫も手伝いましたが、コーヒーの実を食べてみてびっくり。外側の果肉はとっても甘いんです。
そして、ある日、村の診療所の女医さんから、昼食会のお誘いがありました。この村もやはり外部からきている人は少なく、彼女も外の人と話したかったのだと思います。
これが診療所の写真
clinic.jpg
当時のメキシコでは、大学の医学部を出て医者になると、最初の何年間かは、僻地の診療所で働くことが義務づけられていたようです。
そんなわけで、彼女のこの村に派遣されてきていたわけ。でも、外部から人があまり入ってこない閉鎖的な村では、地元の人と派遣された医者との間で摩擦が生じる場合も多いと言うことでした。
そして、その時の話でも、「つい最近、北部の村に入った医師が、意思の疎通が取れず、誤解が生じて殺されてしまった。」と言っていました。
結構ショッキングな話だったので、覚えていますが、それ以上に強く記憶に残っているのは、その時ご馳走になった「チレ・レジェーノ」のです。続きを読む
posted by tady at 15:14| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月21日

メヒコの山の中の話プエブラ編2

山道を苦労しつつ踏破し、たどり着いた村で、僕らがお世話になったのが、下の写真のような小学校。escuela.jpg
小学校ではあるのだけれど、学校までとっても遠い子供たちのために、半分は寄宿舎のようになっていて、寝泊りができます。子供たちは、月曜日に学校に来て、金曜日に家に帰るという生活を送っていたようです。もっとも、子供も労働力ですから、親としても、子供を学校に送り出すことは中々大変なようで、出席率はそれほどよくなかったようです。
残念ながら、僕らが行ったときは、教員のストがあり(賃金の未払いが原因だったようで)、結局、僕らは、何にもできなかったのでした。僕らは、子供たちの宿泊施設に寝泊りすることに。
問題は、食事で、当てにしていたものが、全くなくて、最初の数日間は、自分たちで学校にあるものを使って、調理して食べていました。そのとき初めて見たのが、粉卵。アメリカ人の子が、見つけてきて、これを水で溶いて、焼けば、玉子焼きができるといわれて、半信半疑、やってみたら玉子焼きができました。粉卵があるとは、びっくり。
子供たちと接することはできなかったものの、村の人たちが、いろいろ案内してくれて、村が取り組んでいる事業について、教えてもらいました。その辺は次回に。
posted by tady at 23:55| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月20日

メヒコの山の中の話 プエブラ編1

ゲレロ州の村から帰ってきてしばらくしてから、今度はプエブラ州にある山の中の村に行くことになりました。
小学校のお手伝いというのが、目的でした。行ったのは、僕とイタリア人の男の子とアメリカ人の女の子の3人。
まず、プエブラに集合し、そこから小型トラックで村に向かいました。荷台に乗って行ったのですが、揺れること揺れること!とんでもない山道を走っているのは分かるものの、外が見えないので、どういう状況かは分かりませんでした。
coche01.jpg
車が止まり、到着したかと思ったのですが、ところがどっこい、目的の村には、車の通れる道が通じていませんでした。麓の村でトラックを降り、その後は徒歩です。
village01.jpg
(ここが到着した村。手前に見えるような小川をいくつも越えて、でこぼこ道を走ってきたのでした。)

山道を歩くのは慣れていると思っていたのですが、さにあらず、本当に険しい道で、途中何度か岩をよじ登らなければなりませんでした。
渓谷の向こうに見える山にも、山肌を這うように続く、ジグザグ道が見えていました。
mountain02.jpg
続きを読む
posted by tady at 19:00| ローマ ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月18日

メヒコの1日(コメントを頂いたので、、、)

「お知らせ」に頂いたコメントと共にお読みください。

20年以上前の話を、これだけ鮮明に覚えていると言うことは、きっと、嫌なことはなかったのだと思います。悲壮感はなかったなーー。多少の緊張感と危機感をもった瞬間はありましたけど、、、(そんないくつかの出来事については、そのうち書きます。)
生きるってことに一生懸命だったからかもしれませんね。若かったし、、
僕が居た当時と現在は違うかもしれないし、社会階層によっても違うと思いますが、僕が経験した、メヒコの都市部の人の一日は、だいたいこんな感じだったかな?
朝は結構早く起きます。メヒコでは、朝起きるとまず、シャワーを浴びます。もう25年近く前に1年間いただけなのに、僕は未だに朝シャワー派ですね。
メキシコシティーなどで、朝、満員のバスに乗ると、みんなの頭が濡れていました。
ドイツに留学していたメキシコ人の友人は、「僕らメキシコ人は毎朝シャワーを浴びて、清潔にしているのに、ドイツ人は、何日か置きにしか風呂に入らなくて、とっても不潔なんだ」とぼやいていました。もちろん、気候の違いもありますから、一概には言えませんが、、、
確かに、都市で人々を見ると、色彩的にはなんとなくくすんで、汚れた感じに見えてしまうのですが、それは、メスチィーソと呼ばれるメキシコ先住民とスペインの侵略者との混血によって生まれた人々が多くをしめているため、彼らの肌と髪の色から来る印象であって、不潔なわけではなく、ましてや、山の中の農民たちの赤銅色の肌は、本当にほれぼれするくらいツヤツヤとして、逞しかったですよ。
朝ご飯は日本と違って軽いです。特に標高の高い町では、起き抜けは、胃腸も動いていないから軽いのだと聞きました。
午前中は仕事。午前中と言っても、前に書いたように、メヒコのお昼は2時頃でしたから、昼食前ということです。
お昼は、だいたい、家に帰ってきて、しっかりと食べます。そして食べたらシエスタ(昼寝)ですね。午後は仕事はなかったように思います。
4時過ぎくらいからは、お買い物に行ったり、町をブラブラしたりとゆったりと過ごします。
夕食は、結構遅い時間帯でした。
ある時、ホームパーティーに招かれて、夜10時からってことで、日本人的感覚で10時に到着するように行こうとしたら、それは、物欲しげに思われるからヤメなさいと言われました。
あまりにも早く行くと、「こいつは、腹を空かして、飯が食いたくてハヤバヤとやって来たのか」と思われるらしいのです。
で、10時の約束なのに、みんなが集まるのは12時!夜中ですよ、夜中!それから、食べて飲んで、朝方の4時くらいまでパーティーでした。
日曜日になると、多くの人はカトリックの信者ですから、朝は教会に行きます。基本的に日曜日は神様の決めた安息日ですから、お店は休み。だいたいみんなで近場にピクニックって感じだったかな?
とおーい記憶をたどりながら、こうして思い出していると、ほんとにまた、行きたくなりますね。
posted by tady at 19:55| ローマ | Comment(0) | TrackBack(0) | 昔話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。